『私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。
あなたはその一人になれますか。なってくれますか』

―夏目漱石「こころ」―

 

 

Hide& Seek 2013

 

 

「恋愛をしようとね、決めたんだ」


蓮はそうキョーコに言った。
キョーコは突然の蓮の言葉に、

「え・・・ああ、ええと、ええ、あの、おめでとうございます・・・?」

と答えた。

もともと女性なんて思うがままでお手の物、遊び人なのだから、別にあえて宣言して恋愛をするような人でもなさそうなのに。

でも、この所はどうやら「大事な人」は作れないらしいのだから、蓮の言う恋愛はやはり遊び、という意味なのだろうか。


「相手を不幸にしないなら恋愛は自由なんじゃないですか。仕事の契約を除けば」
「あの人(社長)に、恋愛禁止なんていう契約があると思う?」
「・・・・・・・ないですね。愛のない恋愛は禁止だ!とは言いそうですけど・・・」
「だね」

蓮はにこり、と笑ってキョーコを見た。
何を考えているのか、やはりいまいち読めない笑みに思えてならない。
いつものごとく何かを意図しているか、それとも何か隠しているのだろうか。

「オレの言うこと、何か、変?」
「変、ではありませんけど・・・・」
「けど?」
「春、だからですか?急に恋愛をしようと思うなんて」
「そうかもしれないね」


蓮はクスクス笑って答えをはぐらかした。


「最上さんは、恋愛をしないんだろう?」
「そうですね」
「たった一回の恋愛で、人生終えるの?甘くて愛しい記憶が、彼だけ」


むむぅ、と、キョーコは唇を尖らせた。

「その言い方!!思い出すだけで自分に腹が立ちますっ」

蓮はゴメンゴメン、と笑いながら言って、片手を軽く挙げた。

「でも過去がうまくいかなかったからと言って、将来がうまくいかない訳じゃないって言いたいんだ」
「・・・うまくいくから恋愛をしたいわけじゃ・・・」
「つまりは、誰かを好きになる行為が嫌いなの?いや、嫌いなんじゃないな。少なくとも君は、琴南さんの事は好きだし、オレの事もまあ嫌いじゃない。仕事上の相手だけ、という訳でも無さそうだ。そうじゃなきゃ、オレを思って君はオレのここに唇を置くなんて事はしなかったと思うんだ。でも嫌いじゃないからといって、恋愛上の好きというのとも違う」
「・・・・・・・」


蓮は額を人差し指でさして、にこり、とまた、試すように笑う。
かぁぁと、瞬間的にキョーコの頬は赤くなった。
湧き上がる何かを言葉で言い表せなくて、キョーコは顔を伏せた。


「不安定なオレが、心配?」
「そ・・・」
「そ?」
キョーコは「そう」と言いかけたのだろうか。
それとも、「そんな事はないです」、とでも言いかけたのだろうか。
イエスともノーとも取れる言葉を残し、どうしてキョーコは飲み込んだのだろう。

 

「最上さんは、オレに優しいから」

 

蓮は、少し笑ってそれっきり黙ってしまい、それ以上の言葉をキョーコに求めなかった。

 

「心底本気で恋愛をして、その結果がどうであれ、たった一人の相手のためだけに心も体も時間も捧げて・・・・その感覚を体中で知っている最上さんがうらやましい。オレは、最上さんほどの恋愛は知らないから・・・これからそれを知ることにするよ」

「相手がうらやましいですね」

「そうだといいけどね。とても強くてとても繊細だから・・・守ってあげたい」

蓮は優しくキョーコに笑いかけた。

その笑みは、恐らくキョーコを通り抜けて、その相手の元に向いていたのだろう、とキョーコは思った。

そんな冷静な観察とはうらはらに、キョーコの喉元はきゅうっと閉じて苦しくなった。

 

――キョーコ、あなた恋愛しないんでしょ

――敦賀さんが誰と心底恋愛をしようと自分には関係ないし

――ていうか、せっかく自分に相談、じゃないけど、うそをついているようには見えないんだから、本当の事を話してくれているのだし、応援してます、とか気のきいた事でも言うのが礼儀なんじゃない?

 

――相談をしてくれて、教えてくれて、嬉しいんでしょう?

 

頭の中で湧き上がる言葉は、どれも自分に蓋をして、何かごまかそうとする言葉ばかりだった。喉も胸も苦しい。

 

――自分がしっている恋って、こんなに苦しかっただろうか

 

――だから恋じゃ、ないもの

 

――恋じゃないから、苦しいのよ

 

――・・・・・・あいしているから

 

「最上さんもいつか過去の自分も、未来の自分も許してあげるといい」
「・・・・許す?」
「全部何もかも許してしまえばいい」
「・・・・・・・?」

蓮はいつでも謎だらけだ。
少しだけ先で、それともすごく遠くからか・・・・キョーコの事を見ている気がする。
すでに蓮が歩いて経験したどこかに自分はいるように見えるのだろうか。
だからそんな事を言うのだろうか。

 

蓮の、とても柔らかで穏やかで軽やかな雰囲気を初めて見た。
何かとてつもない重い荷物を背負ってきたのだろうか。
それをどこかに降ろしたのだろうか。
何かを許したのだろうか。
自分の知らない誰かが、蓮のそれを手伝ってくれたのだろうか。
だから、恋愛をしようと思ったのだろうか。

 

――自分の知らない、誰か

――自分の知らない、蓮の、穏やかな、許し

――いつも全てをひとりで抱えこむあなたが

――過去も未来も、自分の全てを見せてもいいと、許したのは、どんな人ですか・・・

 

じっと、考え事をしながら大きな目で蓮を見つめるキョーコを、じっと蓮も見つめていた。
キョーコ瞳は蓮を通り越して、自分の心の中に入ってしまっている。

 

自分を見つめる目。
なんて大きな目なんだろう。
澄んで強く真っ直ぐで、そしてかわいい。

 

――さわりたい

 

と蓮の欲望は素直にそう言った。
目を閉じて、と。
薄桃色の唇。
無意識なのか、視線に気付いて誘っているのか、ちらりと、舌先がその唇を掠めた。

 

蓮は、ふいに手を上にもちあげかけて、すぐにおろした。

 

――まだ君の目の中に映る、一番の俳優でいたくて・・・そのポジションを誰にも譲りたくなくて・・・・

 

嫌いじゃないならまだいい。
でも軽蔑だけはされたくない。
守りたいのか攻めたいのか。

 

――どうしてここまで言って、そばにいて、気付かないのだろう

 

キョーコの鈍さと、自分の気持ちの大きさがぶつかり合って、くらくらする。

 

「・・・・敦賀さん?」

 

蓮がはっと気付いたときには、キョーコは困り果てた顔をして蓮を見ていた。

 

「あぁゴメン。考え事をしてた」

 

そんな優しく神々しい顔をして、真正面から見られたら困ってしまう。

 

――相手を思って考え事をしていたからなのね・・・・

 

 

「敦賀さん、春ですね?」

 

キョーコはにこり、と元気な声で笑った。

 

「・・・・恋愛、頑張ってくださいね。応援してますので・・・・。あの、私、敦賀さんを、仕事の先輩として尊敬していますし・・・・だから、恋愛しても、結婚しても、よかったら、ずっと、私とも、お話、してくださいね?」

 

ぽりぽり、と、指で頬をかきながら、キョーコは遠慮がちにうつむきがちにそう言った。
まるで遠い他人のような。
蓮は衝動的に言葉を発した。

 

「最上さん」
「はい」
「ここはオレの部屋で、仕事中じゃない事もわかっているけれど。セツ、と呼んでいい?」

 

キョーコは一度だけうなづいた。

 

蓮が恋愛をしたい事を知っている。
自分にそれを言うということは、それをすぐに相手に告げる気はないのだろう。
だから何かの切なさと恋をしたい衝動を抱えているのだろう。

セツと呼ばれたら、恐らく、遠慮なく蓮が自分を相手の女の子に見立てて、愛されるだろう事も瞬時に理解していた。
自分を相手の代わりにしたいだけだと。
蓮とキョーコではできないから。
だから。
それでも。

 

カインとセツは、蓮と自分だけの、二人だけの濃厚な秘密。
そんなものを盾に。
それを利用したのは、蓮だけじゃ、ない。

 

蓮は、セツ、と優しく呼んだ。

キョーコは、兄さん、と。

それだけで、よかった。
それ以上の言葉はいらなかった。

 

『セツ・・・』

 

蓮は遠慮なく、キョーコを優しく抱きしめた。
しばらく、ただ、それだけ。
数度、セツ、と呼んだだけだ。
何度も頭を撫でられて・・・・
自分が想像したような息を飲むような恋愛の衝動は・・・・兄妹なのだからだろうか・・・・なかった。

 

『兄さん、恋愛、するなんてズルイ。いつからアタシを裏切ってたの』
『裏切ってない』
『お別れの、儀式みたい』
『違う』
『そうでしょう。兄さんと私は兄妹で、別の人間で、だからもう甘えるなって、別の道を歩くってわざわざアタシに宣言したんじゃないの?』

なぜか自然に出てきたのは怒りの感情だった。
血の繋がっている兄妹は、こんな感じでケンカするのだろうか。
急に浮かんだ怒りは、

――信じてたのに

という言葉が、一番しっくりくる。
裏切られた、という感覚からくるのだろう。

 

蓮は抱きしめる力を相当強くした。
少し腕が痛いぐらいだった。
蓮の腕に自然に抱きしめられる事にすっかり慣れている自分も不思議だ。

 

カインである蓮は、しぐさも性格も荒っぽい。
腕の中で蓮の香水のにおいがする。
なのに、兄さん、と呼んでいる。
なんて不思議な気分。
カインの時、香水も、何か別のものに変えたり、適当な兄なのだから、時々気分が乗らなければつけていなかったりしたのだろう。
こんなときまで、蓮の仕事は徹底していた事を思う。

 

『そんな勝手、許さないわ』

 

そう言って、キョーコは先ほど蓮に言われた言葉を思い出した。
何でも許してしまえばいい、と・・・・

 

――大好きなたった一人の兄が自分のもとから離れていくのも、黙って許すのが大人って事なのですか、敦賀さん・・・?

 

『・・・・知ってる。分かってる。大丈夫。私だってバカじゃないのよ。私より大事にしたい人が、いつの間にかできたって事ぐらい、理解できる』

 

理性で理解ができても、感情は別なの、と言いたかった。

キョーコは蓮の目を見た。
蓮の目はまっすぐにキョーコを見ている。
これはカインとしての視線なのだろうか。
まるで蓮のように感じた。

 

「ひとりぼっちになる覚悟を、しなきゃね・・・」

 

ぽつん、と、キョーコは日本語で言った。
蓮にはセツカが言ったのか、キョーコが言ったのか区別がつかなかった。
さびしそうなキョーコの目は、セツカなのか、キョーコなのか・・・・
なぜ自分はキョーコにこんなにさびしそうな目をさせているのだろう。

 

蓮が絶句して何も言えないのをキョーコは肌で感じていた。
そして、セツ、と、呼んだ。
誰を思ってなのか・・・・何て切なく甘い声で呼ぶのだろう、と思った。
単なる妹を呼ぶ声じゃ、ない。

 

『愛してる』
『・・・・ありがと』

 

セツならいつも言われていただろう言葉なのに、涙が浮かんで、必死でこらえた。
これは、セツのもの?それとも、自分の気持ち?

 

『兄さん・・・大好きよ』
『・・・・知ってる』
『私がどんな時でも愛している事を、忘れないで』

 

キョーコは蓮の左手を取って、そっと口付けた。
蓮は、

『一生オレだけ見てろ』

と続けた。

『兄さんてなんてズルイの』

キョーコは笑った。

 

『あ〜・・・お前と○りたい』
『・・・ちょっと!なんて下品な言葉使うの、兄さん!!』
『照れるな』
『照れてないわ!!もう、ホント兄さんのバカ!!』
『それだって十分下品な言葉だ』

 

蓮はおもしろそうに笑って、キョーコの目元を何度か撫でた。

 

『ウソは言ってない。もしお前が妹じゃなかったら、とっくにオレはお前を○して閉じ込めてオレ以外を見ないようにしてる』
『下品!!』
『男なんてみんな同じだ』

 

蓮から下品な英語が出てくるたび、キョーコは真っ赤になって、セツの顔を忘れた。
カインなら言ってもそうおかしい単語という訳じゃないのに・・・・

 

『別に血が繋がった兄妹だって、別に方法は無いわけじゃない』
『フケツっ。兄さんなんてもう知らないんだからっ!!』

 

キョーコが蓮を腕で思い切り突き放す。
セツカなら、普通なら「そうね、兄さんがそうしたいなら」とでも言って、とりあえず兄の言う事を肯定しただろう事も分かっていたけれど。
蓮は照れるキョーコを見て、思ったとおりの反応だといわんばかりに、面白そうに笑っているだけだ。

 

蓮はあえて逃がした。それ以上キョーコを追い詰めても良かった。
無理やり引き出しても良かった。キョーコの本当の言葉を。
そのいつかを願って・・・・蓮は望む未来の為に、未来の自分に向けて、宣戦布告をしただけの事だったのだったけれど。
妙な方向になってしまった。

 

キョーコが自分を大事にしてくれているのは、聞かないでもよく分かっている。
だから自分もキョーコを心底守りたいと宣言したかっただけなのに・・・・。

 

「ごめん、最上さん、ありがとう、無理やりな事につきあってくれて」
「え?ええ、ああ、いいえ・・・」

 

キョーコは手で顔をパタパタ仰ぎながら、

 

「敦賀さんのせいで、も〜変な汗をかきましたっ」

 

と言って、部屋を出て洗面所に向かった。
顔を、心を元にもどして整えなきゃ、と。

 

――私、本当に敦賀さんの事・・・・

 

蓮の腕の中が好きだと安心すると知っている。
真っ赤な顔の自分を鏡で見ると、逆に驚いて、どんな顔で蓮を見ていたのだろうと思う。

 

――キョーコ、魔法の時間はもう終わり。いつもの自分に戻る時間よ

 

最近冷静になるように言い聞かせると、とてもさびしくなるのはどうしてだろう。

 

――つい敦賀さんになら、何をされてもいいって思っちゃうんだけど・・・・公私混同って言わないかな・・・・でも、セツとカインをやろうって言ったのは敦賀さんだし・・・

 

自分は、蓮の過去を全てをもう、許してしまっている。
蓮がどんな未来を歩こうと、許してしまうだろう。
蓮が自分にどんな事を求めても、許してしまっている。

 

――あいしている、って、ゆるせてしまう、って事なのかしら・・・

 

「最上さん?」
「あっ・・・・ごめんなさい」
「どうしたの、鏡の前でボーっとして」
「・・・・敦賀さんが変な英語を使うから、びっくりして顔が真っ赤になっちゃっただけですっ」
「言っている意味が分かるんだから、君は英語の達人だ。どこで覚えたの?」
「やめてくださいっ!!もう〜本当に〜〜〜〜。敦賀さん実は下品な人だって思っちゃいますよ?」
「どうぞ。男なんて世界共通、みんな同じだよ」
「思ったとしても普通そんな言葉、女の子に向かって言わないですっ」

 

蓮は軽く笑って、「遅くなってゴメン。いこう、送るから」と言った。
キョーコは蓮の背中を追う。

さっきまで濃密な時間を過ごしていたのが嘘のようだ。
今はただの仕事仲間。
話しながら時間と空間をあっという間に別世界へ変えてしまう蓮の技はプロだ。
もう、本当にサギだわ、と思う。
だまされたいのか、だまされていたいのか・・・・

 

いつか恋愛を遂げた蓮がいなくなる事を覚悟して、依存してはいけないと思うのに、心はやっぱり蓮の方ばかりへ向いてしまう。
それはどんなに仕事の数をこなしても、どんな男の人と仕事をしても、蓮を一番に思ってしまうのだから、仕方が無い。

 

――恋愛関係になれないとしても・・・・・せめてずっと敦賀さんと・・・・・・カインとセツカのように、ずっとずっと何があっても強く信じあえたらいいのにな・・・・

 

キョーコは車の扉を開けて待つ蓮の元に、走って向かった。

 

 

 




2013.3.9