檸檬



エドガーが目を覚ました時、既に横にリディアは居なかった。
伸ばした腕がシーツを掠め、空のまま自らの元に戻ってきた。


「・・・・?」


そんなに早い時間にどこへ?それとも、寝過ごし、自分に時間の感覚が無いのだろうか。そんな事を思いながら、エドガーはボンヤリとした頭で、壁にかかった時計に視線を流す。

八時半。少々遅い朝になったようだ。
ゆうべ眠るのも遅かった。


一度目を擦り、エドガーは身体を起こした。ローブを羽織り、水場に向かう。

起きた気配を察したレイヴンが、何処からともなく現れ、声をかけた。

「おはようございます、エドガー様」
「ああ、おはよう。リディアは?」
「先程お出かけになられました」
「行き先は?」
「存じません」
「聞かなかったのか」


顔を洗い、髪を整え、渡された柔らかなタオルで水滴を拭いながら、エドガーはレイヴンに視線を流した。


「すぐにお戻りになるとおっしゃられて」
「・・・分かった。もし、今度リディアが「すぐ帰る」と言っても、今度からはどこに行くのか聞いておいてくれ」
「かしこまりました、エドガー様」


レイヴンは一を十に膨らます事が出来ず、そして、いわれた事は必ず実行する、ある意味で近代開発された機械のような人間だ。

エドガーからタオルを受け取ったレイヴンは、きっちり、軍人のように足元をそろえた。そして新たな自分への行動を制御して貰った事に対し、エドガーに深々と頭を下げた。



*****


ダイニングテーブルには、アーミンが居て、エドガーのための朝食を並べていた。


「どうぞ」
「ああ、ありがとう」


目覚めの紅茶を手にしたエドガーは、一口含み、思い切りその香りを身体中に吸い込んだ。


「紅茶、美味しいよ
「ありがとうございます」
「ところでアーミン、リディアはどこへ行った?」
「さあ、存じ上げませんが・・・。先程紅茶をお召し上がりになって、ご朝食もそこそこに出て行かれました」
「誰か行き先を知っている人間は?」
「さて・・・私にはわかりかねます」
「そう」
「人に探させましょうか?」
「いや、いい」


誰も彼も役に立たないではないか。
せっかくの美味しい紅茶も味半分以下だ。

目の前に用意された温かなスープをスプーンですくう。
そして、それを口に運ぶことなく皿に戻し、ナプキンをたたむと、エドガーは席を立った。


「エドガー様?」
「紅茶だけでいいよ」
「でも」
「食欲がわかないんだ。僕も出かける。馬車の用意を」
「・・・それが・・・」
「どうした」
「十時よりクラレンス公爵様がいらっしゃるそうです。館の絵を見たいと仰られまして。併せてご昼食会も当館でご用意いたします」
「・・・随分と急でいらっしゃる」
「お忙しい公爵様ですから。今朝は少々時間があるとの事でご連絡があったのです。ですから、エドガー様。お時間がありますので、目の前のお食事、コックのために少しでもお食べいただけませんか」
「分かったよ」


エドガーは溜息にも似た息を吐き出し、再度着席した。
口に紅茶を含み、再度香りを身体中に纏わせた。



*****




芸術に長けたクラレンス公の長い話に耳を傾けるフリをしながら、本音ではもう出かけてしまいたい感覚に囚われていた。


「伯爵、今日は素晴らしいものを見せてくれてありがとう」


普段社交上手のエドガーも、今日に限ってはさすがにリディアの事ばかりが気になって、その言葉をあと二時間早く言ってほしかったと思った。公爵に、にっこりと美しい微笑みを返すエドガーは、社交用のポーカーフェイスが得意でよかったと思うばかり。


「いつでもいらして下さい。絵も見ていただいた方がいっそう輝きます」
「今度は私の館にも遊びに来てくれ。君の目も楽しませる事を約束するよ」


公爵が帰ったのは、午後二時。もうすぐ三時のお茶の時間だというのに、リディアはまだ帰ってくる様子が無かった。


「レイヴン、リディアを探しに行く。一人で出かけたにしては長すぎやしないか」
「そうでしょうか。どなたかお友達とお買い物をされていらっしゃるのかもしれません」
「誰にも言わないで出て行くなど、水棲馬に会っているのかもしれないな」
「・・・・・・」

エドガーの単なる憶測や推測に対し、そうかもしれません、とも、そんな事はありません、とも言いにくく、返答に困ったレイヴンは、エドガーを見守るばかり。

困った顔をするレイヴンを見て、エドガーは少しだけ苦笑いを浮かべた。ゆっくりとした動作でソファに深く腰掛け、足を組む。


「・・・僕は、おかしく見えるか?」
「いいえ」
「それはお前の本心?それとも忠誠心?」
「本心です」
「・・・恋愛なんてするもんじゃないよ、レイヴン・・・」


可笑しそうにエドガーが笑うのを、不思議そうな表情をしてレイヴンは見つめる。

「・・・・楽しんでいらっしゃるように思いますが・・・」
「ある面ではね。でもある面では、自分とリディアの二人分の不安を抱える。自分の不安ならどうにでも行動してそれを払拭する事ができるが、他人の事となると自分ではどうにもできない。ただ、不安に思うだけだ」
「どうして不安なのです?リディア様はエドガー様を愛していらっしゃいます」
「気持ちの問題ではないよ。いつか、自分に関わるがために命を落としやしないかとか、今も外で狙われているんじゃないかとか、そういう外的不安だよ。だから、一人で出かけるなんて不安でしょうがなくて、狙われるのは自分のせいなのに、それを気にしないリディアに対して、無用心すぎると怒りまで浮かんでくる。そして、自分が居なければリディアが命を狙われる事も無かったのに、と思い直す」
「命を狙われてでもエドガー様のおそばにいたいと思っていらっしゃると思われますが」
「・・・・そうかな。ありがとう」
「事実を述べただけです」
「お前がそう言うのなら、そうだと思おう」
「お茶を、お淹れしましょうか?」
「そうだな、一息つこう」


出て行ったレイヴンの気配をたどりながら、大きく息を吐き出し、エドガーは天井を見上げた。髪に右手を入れ、かき混ぜる。

どうしてこうも悪い方へ悪い方へと想像が膨らむのだろう。
過去の自分の背負った人間の命の数が、心をも圧迫するのだろうか。


狂気にも似た強烈な不安が、心を占める。
大事にしたどの人間の命だって、失って痛みを覚えなかった訳ではない。
一人一人強い痛みを覚えたはずだ。
でも、生きなければならない、という必死な時間がその感傷に浸る隙を与えなかった。
今、一人になる事のできる時間がたっぷりある。すると、その時の鈍い記憶が逆に浮かんでくる。過去の最愛の家族の事を思えば、今でも今目の前で起こる出来事のように強烈な痛みを覚える。



幸せな時間と引き換えに覚える、鈍い痛み。
リディアを腕にすると、和らぐ。
抱えた鈍い痛みを共に引き受ける覚悟をしてくれたリディアが、愛しい。
だからこそ、だ。
失う痛みを、身体中が痛いほど知っている。
明日彼女が笑っている保証はどこにも無い。
失う事はないと思えるはずも無い。
だからこそ、目の前のリディアに対して強烈な愛しさも同時に覚えている。





「ただいま〜。遅くなっちゃった」




ひょっこり、と、顔を出したリディアを見たエドガーは、何も言わずに立ち上がり、ただ抱き締めた。


「え、エドガー・・・?」
「誰にも行き場を告げないで出て行かないでくれ」
「ご、ごめんなさい。本当にすぐそこのお店に行くだけだったの」
「もう、三時だよ」
「お店のおばさまにつかまってしまって・・・」


エドガーはリディアを腕の中から離そうとしない。
静かに怒るエドガーの奥底に眠る不安なる気持ちがリディアに伝わるのか、リディアも、


「ごめんなさい」


と、だけ、もう一度静かに答えた。


ただただ抱き締めるエドガーに、「ね、ねぇ、もう離さない?」と言うと、エドガーはさらりと、「離さない」と答えるばかり。

そこへ紅茶を淹れたレイヴンが戻ってきて、


「お声がしたので、リディア様の分も紅茶をお淹れしました」


と、抱き締められたままのリディアに平然と言い、真っ赤になったリディアは腕でエドガーの胸を押して、ようやく逃れた。


「レイヴン、今度から、僕がリディアを抱き締めていたら、部屋に入ってこないという事も頭に入れておいてくれ」


そう言うエドガーに対してリディアが、「な、何を言ってるの!」と恥ずかしがったが、レイヴンはごく真面目に、「かしこまりました」と言って、また深々と頭を下げた。



*******




リディアが出かけた理由は、近所の店でレモンを買う事だったようだ。
なぜそんなに早く出かけたかと言えば、

「昨日エドガーが風邪引きそうだと言っていたから、レモンのハチミツ漬けを作ってあげようと思って・・・。朝作れば、三時のお茶に入れられるから」


と言った。その言い訳を喜び半分、ほっとして安心したせいで、怒り半分。


「風邪なんて寝てれば治る」
「だって、エドガーにゆっくり寝ている時間なんてないじゃないの」
「今日はそんな日になるはずだったんだ、君がいれば」
「・・・・・。だって、レモンだけで半日つかまると思わなかったんだもの・・・」
「じゃあ、このあと休む。もう今日は君のおかげで疲れたよ・・・」


さらりと言ってのけたエドガーは、リディアを腕に抱き締め、口付けると、


「レモンのハチミツ漬けもいいけど、これで治る」


そう言って、穏やかに微笑んだ。


部屋の外で入ろうとタイミングを伺っていたレイヴンは、リディアを抱き締め始めた主の動作を見て、部屋に入る事なく、もと来た廊下を戻っていった。







2009.6.27



相方への誕生日プレゼントに☆


以前Photo SSを書いた時から未だ読み進んでいないのですが、(まだ5巻?の、ダイヤモンド話で止まってます・・・デイドリームと見ると自分の事を思い出して仕事しなきゃと思ってしまうのよ・・・)二人はもうハネムーンまで進んでいるのですよね。ハネムーン編をちらっと読んで(すみません・・・)、甘さに驚きました。改めてまとめて読む時間が欲しいです。

イメージが合っているのかどうなのか不安ですが、楽しんでもらえたなら幸いです。