【Daydream 8 -Piano in the dark-】

彼女を試しに抱えて・・・・思った事がある。

オレはやはり「落ちたらしい」。彼女は耳たぶまでまっかで、オレの身体に顔を埋めたまま・・・・微動だに動かなかった。たった一駅、抱えてみただけ・・・・彼女が何者だろうがどうでもよくて、このまま部屋につれて帰りたいと思った。そして彼女の言葉が思い浮かんだ。

『「キョーコちゃん」に好きな人がいたり、結婚していたらどうするんです?』

今までなら「割り切る」だけで済んだのに。そう、それが今までの自分。それでいいはずなのに。目の前にその本人がいて、好きな男のことで苦しんでいる彼女を、どうにかしてあげたい・・・・いや、どうにかしてあげたいんじゃないのだろう。どうにかして自分の手にしたいのだと。オレの気持ちの押し付けで、彼女の気持ちは別の所にある。

彼女はオレを「オレ自身」で全て最初から判断している。肩書きは嫌い、そしてオレに対する先入観があったにせよ、ピアノの音は嘘をつかないと何度もオレに言った。そして、接してみて、オレはもう嫌いじゃないと言う。その言葉にウソは無いと思う。オレが先程の店で彼女のたっての願いで一曲弾いた時の彼女の嬉しそうな顔がそれを表していた。

この子が21年彼を思い続けてきて、苦しみながら今ピアノを続ける理由が彼にあるなら、オレは先に約束を守ったし、もう彼女はピアノなんて止めてオレの腕の中にいればいいのに、そう思った。


――教える、と決めたのに・・・・。


彼女を不破から離せるなら、彼女の将来や成長なんてこれぽっちも考えていない自分がいる。


「最上さん。例の曲聞きたいから寄ってね。」

駅の改札を出てウチへ帰る途中、彼女にオレの気持ちを確かめる為に行きの車内で告げたことを繰り返した。彼女は「分かってますよっ」と楽譜を取り出して、暗闇の中見ようとしていた。

「目が悪くなる。」
「どうせ入ったらすぐに弾けって言われますから。先にさらっておかないと・・・・。」
「その解釈。オレのままだけど・・・君の解釈は全然書いてないね。」
「・・・・だって。まずは敦賀さんに追いつきたいんです。これ弾く事は出来ますが、敦賀さんのような解釈では弾いた事が無いから・・・。それにこの曲って敦賀さんの代名詞な曲でしょう?」
「君の、解釈でいい。オレのは参考でいいから。試しにさらうのは構わないけど。」
「え?でも・・・。」
「君の音が聞きたい。」
「その・・・さっきから私の音って何度も言われてますが・・・???」
「お店でジャズを弾く君の音はとても楽しそうで、明るかったのに・・・君がこの間オレの前で弾いてくれた曲や今日先生のピアノで弾いていたのは・・・弾けているしいいんだけど、何か君らしくない。それ・・・・不破の音だろ?もしくは不破の父親か?」
「なんでまだ会って数曲しか聴いていないのにっ・・・。」

驚いたようにオレの目を覗きこんだ彼女は、「もうそれ以上は言わないで」と・・・目が訴えていた。けれどオレは追いつめる為に口にした。

「先生に聞いたよ。今までずっと不破を・・・追ってきたんだろ?君の音は不破の音だと。」

そう言うと、彼女は「そうですね」と少し寂しげな顔をして、視線を暗闇の先に向けた。学校の近く。校内の人間にどうしてもすれ違う。「敦賀蓮と敦賀蓮を嫌いな最上キョーコが一緒にいる。」そう後ろ指をさされていた。けれど彼女は慣れているらしい。それには目もくれず、ただ寂しそうな顔だけをしていた。



無言のまま部屋の玄関にたどり着き、入ろうとしたときに彼女は一度固まり、そっと壁の陰に隠れた。彼女がじっと陰から見ていた先には、隣の部屋の男が玄関先で大きな荷物を抱えていた。

「入ってて。」

彼女を玄関に押し込んで、その男の前に立った。

「はじめまして。」

オレに気付いた彼は、きっ・・・とオレを睨んだ。


――彼女を取られた事が・・・憎いんだろうか?


「先週から・・・隣に引っ越してきたんだ。よろしく。先日はパーティに来てくれてありがとう・・・・。」

なぜ彼が来たのかは分からない。ただ学長が持つ同じレコード会社だからというだけなんだろう。

「・・・・どうも。」

彼は視線を逸らすと、それだけ口にして、中に入ろうとした。

「待って。」
「・・・・?」
「この間の件。君の彼女・・・の事説明させて欲しい。」

何かを疑った目を向けた彼は、「何の話?」とそ知らぬふりをした。

「あれは本当の事じゃない・・・。君は彼女を「約束」を破ったと・・・責めたみたいだけど・・・あれはラブミー部の仕事としてオレがお願いした事だから。悪かったよ・・・。」

彼に謝って自分の立場を明かしているだけなのに。オレは彼女を手にしたいのに、こんなフェアで紳士なふりをしなくても・・・・と、自分で自分が、内心ひどくおかしかった。

「でも・・・別に。オレはキョーコが誰を選ぼうと、どうでも。」
「結婚の約束をしているんだろ?」
「アイツ・・・・そこまで話したんですか。」
「いや。これは先生から。先生も君を心配してる。」
「キョーコが・・・約束を果たした時にオレの心とアイツの心がどこにあるかでしょ。先生には明日会いに行きますから。」
「なぜ・・・今手にしない?」
「じゃあ逆に聞きますが。なぜあんたはそんなにオレたちの間に入ってくるんです?」

そう言われて・・・・返す言葉が無かった。君と同じ立場だから、とは今は言えない。不破も彼女はオレを分かってない。確かにただのおせっかいだと思うだけだろう。

「先生と共にオレも彼女のピアノを見てる。彼女の精神的ケアもオレの役目。だけどもしその間にオレが、彼女に手を出しても君は構わないわけ?」

「・・・・最初からそう言ってくれば話は早かったんですよ。精神的ケア?手を出す、がいいたいんでしょ?でもアイツはオレだけだから。オレのことを全て分かっているのがアイツなら、アイツを全て分かってるのもオレ。アンタが探す「キョーコちゃん」が見つかるまでの間の隙間女をアイツ自身が自分で選ぶなら、オレはアイツを止めませんよ。オレも人の事言えないですし。ほら。」

そう言って、彼は玄関をちらりと開けた。

彼の連れらしい女の子が中から不安げに「尚」と・・・・呼んだのを見て、オレの感情は逆撫でされた気がした。

「ね?別に・・・。」
「なるほどね。有名とは聞いていたけど。」
「彼女はオレがピアノを教えてるんですよ。同じ事です。それ以上のこと、していると思います?」

くすくす、と不敵に笑った彼は、「奥行ってて」と・・・その女の子を退けて再びオレに向いた。

「ピアノ、弾いてはいるわけだ。あの子にはもう教えないわけ?」
「アイツは完全にオレの音を理解しているし・・・あとはあの変な部さえ出られれば国内コンクールなんていくらでも優勝しますよ。先生やあなたがアイツを見るぐらいなんですから。それぐらい見抜けたでしょ?」
「君はもう・・・コンクールに出ないの?」

そう言うと、彼はまたオレをキツク睨んで「質問攻めはごめんですよ。おやすみなさい。」と言って、ドアをぱたんと静かに閉めていなくなった。


自室に戻ると、彼女は玄関にいなかった。リビングの窓際で背を向けて立っていた。オレの気配を察したのか、背を向けたまま口を開いた。

「私がしなきゃいけなかったのに・・・。」
「あぁ、さっきの事・・・?いいよ。それよりも・・・」

荷物を床に置いて、窓際から動かない彼女に近寄った。彼女はそれでもこちらを向かなかった。また、泣いているんだと思った。横に立つと、彼女はふっと力なく笑った。

「大丈夫?」
「大丈夫、です。」
「どこまで聞いてた・・・?」
「・・・・「奥に行っていて」。アイツを呼んだ彼女・・・の声は・・・知ってる人です。」

以前と同じように、彼女は今にも泣き出しそうな自分を必死で止めている様子だった。

「ごめん・・・君の前で彼を追い詰めすぎた。」
「どうして追い詰めたんです?どうして、私たちの間に・・・」

そこまで言って、ごめんなさい、と目を伏せて口をつぐんだ。

「今日はもうあの宿題はいいよ。飲みなおそう・・・。付き合って。」

オレがお湯を沸かす間、彼女はずっと窓辺にぼんやりと立ったままだった。そして、ふぅ、と一つだけ溜息をついた。
紅茶にリキュールを落として彼女に渡した。座って、と無理やりソファに座らせた。横で丸まっていたオレの猫が彼女の膝の上に飛び乗って、危うく彼女はこぼしそうになってカップを上に上げて、ガラステーブルの上にカタン、と透明な音を立てて置いた。

「ゴメン。そこの場所その猫のお気に入りなんだ。忘れてた。」
「そうですか・・・。」

猫をそっと撫でてから人形のようにぎゅっと抱き寄せた彼女は、何度も「驚かせてごめんね」と耳元で囁いていた。しばらくしてアリーが彼女の顔をぺろり、と舐めて返事をした。

「アリーだよ。君を気に入ったらしい。座っていいって言ってる。」
「ごめんね、アリー・・・」

アリーに謝っているのか、誰に謝っているのか・・・。猫を抱えたまま、先程の紅茶を一度口にした。

「どうして、君は・・・ピアノを弾く?」

びくり、と一度震えると、彼女は固まった。答えに困った様子で、じっとオレの目を探るようにしていた。

「不破の為?」
「・・・・・・・。」
「なら、やめたほうがいい。君は一生ラブミー部から出られないよ。」
「約束が、あるから。」

――オレと君の約束?それとも、彼と君の約束?その両方・・・?

「・・・・約束が無くなったらピアノは弾かない訳?そんな気持ちならやめた方がいい、と言ってる。」
「ピアノはっ・・・好きですっ。だけど・・・今一番の目的を聞かれたら・・・。」
「名誉や肩書きは嫌いなんだろ?でもピアノを弾くのは好き。コンクールに出なくても君は弾くだろうね。でも約束があるから、やめられない。彼との約束を、果たしたいんだろ?」
「・・・・・。」
「それとも君は一生彼との約束に縛られていたいの?」
「・・・そうかもしれません・・・。」

即答されて、苦しかった。彼女が弾く理由が彼にあって、苦しんでいる理由も彼にある。約束に縛られたままでいたいなんて。

「君は約束を果たさないからいつまでたっても彼に負い目を感じるんじゃないの?いつまでたっても彼を忘れられないんじゃないの?」
「忘れる?」
「好きなの?彼を。」
「えぇ。」
「君をほったらかして・・・夜中に他の女の子を教えてなんていう理由を平気で言う彼を?」
「・・・・・敦賀さんと同じ、って言っていましたから・・・。」
「へぇ・・・もう・・・向こうの明りは消えてるけど?」

しばらく前に明りが消えたのを彼女は横目で見ていたのは知っていたけれど。わざと指を指して駄目押しをおした。向こうの壁に反射していたはずの明りが見えなくなっている。

「・・・・分かって、います。私がここにいる事も・・・世間は「そういう」風に取るんでしょう・・・。」
「君には手を出さない、と言ったから安心してる?」
「・・・・・・。」

信じてる、と目がオレに訴えていた。そして、また一口紅茶を口にして、ふぅ、と溜息をついた。

「君は88個の鍵盤の向こうに何かがあるって・・・言ったけど。君が・・・ピアノを弾く向こうには何がある?」

「・・・・破滅と絶望の序曲が聴こえます・・・・」

・・・・・・。

「そんな事の為に君はピアノを弾いてるの?せめて楽しいからとか幸せがあるからとか言わない?君は不破を追ってここまで来たんだろう?その不破に追いついたら幸せがあると思っているから・・・今でも続けているんじゃないの?」

「これを追った先には「別れ」がある事が分かってるんです。だから、ピアノを追いきれないし、約束を反故にも出来ない。約束なんて「言葉」にすがってどうすると敦賀さんが初めて会った時に言いましたよね。私もそう思います。今まで、私がアイツの記事を見ても何とか平気だったのは・・・相手が年上だったからです。今の声は・・・同級生ですから・・・。歳じゃなかったみたいです。」

「あいつとの約束なんて・・・破ってしまえばいいのに・・・」

「互いに互いを分かっていて、好きで、ピアノが目の前にあればそれだけでもう何もいらなかった。幸せだったんです。付き合ったらもう結婚だと思っていたから。だから私はピアノに集中したくて彼と約束をしました。「お互いに一番になったら結婚しようね」て。彼はもう随分前に一番になりました。私は待ってくれていると、思っていたかっただけです。その間に生きる道が・・・少しずれてしまいました。分かっていたんです。ただ・・・この世でたった一人になるのがイヤだっただけなんです。もし私が結果を出して・・・彼に約束を果たした、と言っても、きっと「遅かったな」の一言で終わるのが分かっていたから。その約束を夢見ていたかったんです。私は彼のシンデレラでいたかったんです。愛の夢の中にいたかった・・・彼と一緒にピアノを弾くのがただ楽しかったあの頃に戻りたい・・・・・・。」

アリーを横に降ろしてすっと立った彼女は、「流音ちゃん借りますね」と一言言って、部屋をあとにした。

――泣くところを見られたくないのだろう。


しばらく一人でぼんやりとグラスを眺めていた。
くるくると中身を回していて・・・それと共に遠くからピアノの音が漏れ聞こえる。

彼女のむき出しの感情と率直さは危うくて、それが逆に惹かれている原因なのは、泣いた彼女を抱えて分かっていた。そして、今また、彼女の中に見た一瞬の弱さがさらにオレを惹きつけた。


彼女のピアノを弾く理由は彼との約束だけだと、痛いほど思い知らされる・・・。


――約束、という言葉に、自分が一番すがってきたくせに。


それが彼女を苦しめるなら。もう、これ以上彼との約束に彼女が縛り付けられているのは、嫌だった。オレとの約束なんて忘れている事が、また、さらに悔しかった。


オレも立ち上がってピアノの置いてある部屋に向かった。彼女は宿題の曲、幻想即興曲を弾いたけれど、オレの解釈ではなく・・・彼女の感情のままに弾いているのだろう・・・激しくてなぜかとても悲しく聴こえる。

それが弾き終わると、弾きながらまた例のCDの中の歌を何曲も歌っていた。泣きそうに細く高い声が部屋から漏れている。オレはそれを廊下で立ったまま、黙って聞いていた。彼女のピアノが感情に左右される、と学長がいうのは当たっているかもしれない。彼女はピアノで感情の発散を図っているのかもしれない。切ない彼女の感情の全てが見て取れた。


オレが聞きたかった、彼女の音と声だった。

その高い声があまりに悲痛で・・・・心が痛かった。ピアノに乗せて歌った英語の歌はうまく歌詞が聞き取れなかった。不破の今部屋に居る彼女の事と・・・自分の気持ちを歌っているようだった。今不破の部屋にいる子は、自分のようには彼を理解できない、と言いたいであろう内容。立ち直ったつもりでも全然ダメだと。自分を出すのが怖くてさよならも言えなかった、と・・・。

『オレのことを全て分かっているのがアイツなら、アイツを全て分かってるのもオレ。』

不破がオレに言った言葉が蘇った。彼女も・・・そうなんだろう・・・。オレが知らない彼女を全て彼が知っているというだけで、離れた十数年を感じた。さよならも言わずに・・・と言われて・・・・追い詰めた罪悪感が募った。それでもこれが、彼女なりの、ふっきる為の儀式なんだろう・・・・。


歌いきって、彼女はがくり、とうなだれた。
ピアノの蓋を閉めて、両腕を置いてつっぷして顔を埋めた。


オレが追いつめた以上、慰めなければ・・・・と思った。けれど今、入ったら、多分・・・余計な慰めをする。彼女を割り切れなくなる。彼女も多分今傍にいれば、オレに本気になるかもしれない。そうなったら互いに割り切れなくなる。

オレが彼女を欲しいのは、過去の思い出の中のオレが切望するのか敦賀蓮としてなのかは分からない。将来的に彼女を傷つけるかもしれない。だから、今、弱った彼女に付け込むのは卑怯だと分かっているのに。

不破から離れてオレのものになるなら、何でも良かった。


「満足、した・・・?」

顔をあげて振り返った彼女は・・・・泣いてはいなかった。

「・・・・・・聴いてたんですか?」
「・・・・おいで。」
「いや、です。」
「キョーコちゃん・・・・。」
「ずるい、です・・・。二人の時はその名前で呼ばないって・・・。」
「キョーコちゃん。」
「私を・・・泣かせたいんですか?こんな時ばっかりいつも優しくて・・・本当にずるいです・・・。」

意地を張って動かなかった彼女の傍まで行って真っ黒で短い髪をそっと撫でると、我慢していた涙がぼろぼろと落ちて、「敦賀蓮のばか・・・」と呟いて涙をこぼして目を伏せた。

「オレに会ってから泣かなかった日が無い・・・と言ったでしょ・・・。いいから。また抱えていてあげるから・・・。オレの前では、君の奥深くを全部さらけ出していいから・・・。」
「ふ・・・・ぅっ・・・・。」

リビングのソファまでもう一度連れた。さすがに今日ベッドに連れて、何もしないでいられるとは思えなかった。彼女を横から引き寄せ、抱いた彼女を撫でて、耳元で「大丈夫、大丈夫だよ」と暗示を掛けていく。

今日は声をあげて泣かずに、ただ必死にしがみ付いて声を殺して泣いていた。

「また泣く事が分かっていたならあの時にもう忘れてしまえば良かった」と言って、「敦賀さんのばか・・・・」と・・・付け加えた。


彼女は呟くようにもう一度先程の歌を歌った。オレの耳元で・・・悲痛な声が直接鼓膜に響く。彼を愛していると・・・愛して欲しかったと彼女の心が叫んでいるのが分かる。止めたかった。オレはその歌う唇に指をおいて先を止めた。

唇にぎりぎりまで顔を近づけると、彼女は少し驚いたものの、抵抗しなかった。
余計な慰めを・・・彼女に自ら選んで欲しかった。

「・・・オレを選んで・・・・。」
「私を・・・哀れんでるんでしょう?キス一つ経験無いのに、こんなに泣いて・・・。」
「選ぶのは君だよ・・・?オレは君を裏切らない。オレは君に手を出さないと言った。」
「隙間女にはなりたくない・・・。」
「じゃあオレと結婚する?」

彼女はふっと・・・詰めていた息を吐いて、細めていた目を丸くした。

「君が欲しい「約束」だろう?キスをしたら結婚・・・。」
「今までもそうして「気に入った子」を口説いてきたんですか・・・?」
「・・・オレの・・・「溜息」・・・のイメージはこんなキスする直前の感じ・・・。」
「ふふ・・・敦賀さんって・・・どこまでもひどい・・・。」

彼女は諦めたようにそっと笑って、オレの首に腕を回した。そっと引き寄せた彼女の柔らかい唇は震えていた。ただ互いについばみあうだけ・・・それだけなのに、ひどく切なかった。

キョーコちゃんとして見ているのか彼女として見ているのかも分からず、ただただ心が苦しくて、何度もついばみあった。

くたりと少し力が抜けてオレに身体を預けたのを見て、唇を離した。


「だめ、これ以上すると君を帰せなくなる。」
「・・・・・っ・・・・・。」

我に返った彼女は真っ赤になって、顔を隠すようにまた抱きつかれた。
可愛くて仕方がなかった。

自分で彼女を追い詰めたくせに・・・オレを選んだ事が嬉しかった。


「泣くのは今日で最後にしよう?」
「はい・・・・。」

彼女がようやく落ち着いた頃、涙を拭ってやって声をかけた。

「君を縛っている全ての「約束」を全てオレに預けて欲しい。オレは君を裏切らない。君をラブミー部から出して、世界に出す。オレが「約束」するよ・・・。君はそれを堂々と引っさげて、その時改めて彼にぶつかるでもいいし、もうピアノをやめるでもいい・・・。どちらにしても・・・目先の新しい「約束」は不破じゃなく、世界が相手、それだけでいい・・・。他の事はオレに任せて。いいね?」


本当の本心は。
彼女を不破から離せたから。
次は彼を・・・彼女から遠ざけたかった。


彼女はきょとんとした顔で、なぜ?と一瞬戸惑った。でも、一度ゆっくりとオレに視線を合わせたまま、深く頷いた。

「・・・・・はい・・・・。でも敦賀さん・・・プロへの転向もあるでしょう?」

「そうだね。だけど君は初めての教え子で、初めてオレに大嫌いだといったのに、オレは君も、君の音も気に入った。世界に行く力もある。だから。今ここで止まったら・・・ダメだ。88個の鍵盤の向こうに、君の新しい世界がある。完全にオレの自己満足だよ。だけど、そこまでオレが引き上げる。君も不破を手に入れるでも見返すでも約束を守るでもいい。オレを使って、オレを利用するだけすればいい・・・。オレは君に恋人役をお願いする、それが互いの最初の約束だろ?」

それを今口にするのは、互いに割り切る為だと、彼女に割り切らせる為だと・・・思うのに、心はひどく痛かった。

「はい・・・。」

「君の信頼をようやく得たところなのに、ここで君が嫌がる事をしたら一生近寄ってもらえ無そうだからね・・・。君の嫌がる事はしないとそれも「約束」するよ・・・。だからもうおやすみ・・・。」

もう一度彼女を抱き寄せて、「次泣く時は、嬉し泣きにして」と・・それだけ告げて、彼女を家から追い出した。



彼女が、オレを割り切った「女」の目をしたのを、見逃さなかった。
オレが割り切って手を出し、傍にいると思い込んだのは、今までのオレとの会話の流れからすれば自然な事だろう。


――今までと同じなのに・・・・。


こんなについばむだけのキス一つで苦しくなるとは思わなかった。


彼女を世界に出したとき。


オレはどうなるのだろう・・・・。
彼女はどうするだろう・・・・・。



彼女から貰ったCDをその晩かけて何度もリピートした。彼女の歌った曲を思い出すと、彼女の不破を本気で諦めきれていないだろう苦しい気持ちと、オレを割り切った本気では無い気持ちが見て取れて・・・眠れなかった。
























  

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2006.3.12