第四部

【Daydream 22-1 ≪Sonate fur Klavier Nr.26 ' Lebewohl, ' op.8la ピアノソナタ第26番 第一楽章「告別」≫】


ホテルに戻る途中の路上。夜の店の前で、そこに行く男達へ花売りをしていた少女から目に止まったひまわりを一本だけ貰った。それをレンに渡すと、彼は一度小さく笑って、「ありがとう」と言った。そしてすぐにホテルの部屋に戻って飾りなおした。

土屋女史と共にキョーコが日本へ帰った日、レンは珍しく「飲みに行こう」と言って、いつもとは逆で、彼がオレを誘った。


「レンが誘うなんて珍しい。」
「たまにはね。美味しい店知ってる。お前ももうイタリアに帰るんだろう?」
「そうだね。じーさんに会って、日本へ行く準備しないと。」
「次に会うのはいつになるかな。」
「・・・・・・・・・・・・・。」

レンが、コレだけ参っている姿を初めて見たかもしれなかった。
無駄口を叩く隙が無い。
普段完璧すぎるほど自分を律している蓮が、オレに弱い部分を見せる。
いや、無自覚なんだろう。

それに彼にとってこの国は地元。
弱っているくせに、オレに気を遣って、誘ってくれてもいるのだろう。


「蓮、言っておくけど。オレにまで気遣いは無用だよ。」
「・・・悪い。気を遣っているように見えたかな。でも・・・ありがとう。」


長い間彼が探してきた「女の子」がレンと並び、腕を組んで一緒に居るその様子は、とても幸せで、レンがようやく誰かもう一人に心を開いたのだと、とても安心して、何よりも嬉しかった。

彼女を見送ったあと、レンが静かに自嘲気味に笑い、そして「帰ろう。飲みに行こう。」と言ってまた静かに笑った。友人として何も彼に言う事が出来なかった。それだけ、キョーコの存在は大きいという事だったのだろう。


彼女のスカーフで隠した首元は、蓮の付けた痕が多数見え隠れしていた。そして、ノースリーブタートルを着た蓮の首元も、小ウサギと同じ状態なのだろう。


キョーコは別れ際、散々蓮の前で泣いたようで、赤い目の小さなウサギは最後まで赤い目のままだった。そのウサギを最後大事そうに抱きしめるレンを、強く抱き返した彼女を、互いを思いあっている二人の姿はとても美しく、切なくて、そしてとても羨ましかった。土屋女史まで、なぜか涙をこらえていた。





いつも通りぼんやりと、何を話すでもなくレンは無言で飲む。互いに話したい事がある時だけ口を開き、残りの時間は、蓮は窓の外を見ている。


蓮は昔から穏やかなピアノ曲が流れている店で間接照明の、薄暗い店を好んで選んでいた。今日も、同じような雰囲気の店で、イギリス時代によく二人で飲んだ店を思い出した。それは、レンも意図して選んだようだ。

「・・・・・似ているだろ?」
「そうだね。」
「懐かしいな・・・。もう随分昔の事のように思うよ。」


そう言って、一口飲んで、グラスを置いた。
蓮は変わらず窓の外を眺めている。


「お前は、あの店で、はっきり言って肖像画だったんだ。」
「肖像画?」
「微動だにしない月光の下の貴公子・・・って絵のニックネームまでついてた。いつもの窓際の席に座ってて。」
「飲んでいたんだから、動いていただろう?」
「いや?お前が何か物思いに耽るとき、グラスを持ったまま動かなくなる。」
「あぁ・・・・大体、大した事を考えてない。今日の音は最低だったな、とか。色々な楽譜を反芻してる。」
「そうかな?」
「そうだよ。」


「ちなみにレンが月だったから、オレは太陽なんだと。対照的過ぎる程対照的で合ってる、だってさ。」
「対照的過ぎて・・・付き合えないと思った。だから高校に入ってすぐ・・・あの部屋割り、正直オレは最初、嫌だったんだ。一人部屋にしてくれって何度も掛け合ったんだから。」
「それはオレの台詞だろ。学校一の色男がオレの同部屋。しかも学校一のピアノ技術。オレは高校で華々しく過ごそうと思っていたのに・・・・霞むじゃないか。」
「ははっ・・・お前はその存在だけで十分華々しいだろ?」

「・・・・そうかぁ?・・・それに、レン、入った頃、しばらく誰とも話さなかっただろ?英語が話せないのかと思ったよ。」
「・・・そうだったかな。」
「そうだよ。」
「『無駄話は好きじゃない。』みたいな難しい顔してスカシやがって・・・。腹が立ったから、飲みに誘ったんだ。」
「本当の初めましてが「飲みに行こう。」だったっけ?驚いて、素直に誘いを受けたんだ。音楽家同士の部屋の交代なんて日常茶飯事だったし、そういうのに関わりあうのが面倒だったから。また「お前が嫌いだ。部屋を変えてもらう。」が始まるのかと思ったんだよ。」
「オレは好き嫌いはしない主義なんで。にしても・・・あの日以来、オレは飲んでお前に勝てたためしがないんだ。それがまた、腹が立つ。」
「今日ももちろん朝まで付き合ってくれるんだろ?」
「今日こそ決着を付けたいものだね。」
「はは、それは今日はお前に譲るよ。寝てないんだ。勝てそうに無い。途中で寝るかもしれないな。」


赤い目の小さなウサギは、甘えに甘えて、蓮を寝かせなかったか。
ふう、と一つため息をついたレンは、一度立ち上がり、レンの好きな酒を1本抱えて戻ってきた。オレが氷を落とし、レンが互いのグラスにそれを注いで、改めて飲み始めた。


互いに無言で、少しだけ口に含んだ。視線を感じて、その方向に目を向ける。相変わらず窓際の月光下の貴公子は、その憂いた横顔だけで、オンナの視線を全てモノにする。全くもって腹立たしい。


「それにしても・・・・レオ、オレはお前が本当に羨ましいよ。」
「今のオレの心の中の台詞をそっくり聞かせてやろうか?「お前が羨ましい。」」
「なぜ?」
「教えてやらん。じゃあなんでオレなんかが羨ましい?」
「お前は・・・・思った事を全て口にするだろ。オレには、出来ない。」
「お前はひねくれ者だからな。オレは素直なんだ。」
「・・・・・・・・・・・・レオ。彼女を、頼んだ。」
「初めての・・・・素直な頼み事、仕方ないから叶えてやるよ。オレはお前の音も世界の音も、一番知っている自信があるんだ。あの子にお前の音も、世界の音も、教えてやるよ。」


「・・・・・・・・ゴメン。」
「なんで謝る?オレは日本に興味があるんだ。ゲイシャにスモウレスラー、それから・・・トトロ、だろ?」
「トトロ?」
「お前は日本人の端くれにもなれないよ。全く。」


ふっと笑って、月光下の貴公子は、再びグラスを片手に、また物思いに耽り始めた。



店には、彼に合わせるかのように、静かに「月光」が流れている。



月光下の貴公子の元に群がる美しき蝶たちは、レンの席の周りに、レンが作り出すその独特の静けさを壊すように、まとわりつく。別の蝶の群れが、オレの元にも寄ってきた。オレは首を振ってその彼女達を退けた。が、彼はそれらに気づくと、その嫌味なほど綺麗な笑みだけで、彼女達を拒んだ。彼女達も慣れているから、レンのグラスの酒を一口飲むと、一つ目配せだけ残してまた、次の花へとひらひら舞い、その場を去る。

レンは相変わらず静かに口に酒を持っていき、少し含む。今、まさに月に飲まれそうな彼は、一体何を考えているのだろうか。楽譜の事などではあるまい・・・・。



「月光」の第三楽章が始まり、少しだけ、店内が賑やかになる。
レンの右手の指が、その音にあわせるように太ももの上でリズムを取る。

今、レンの心の中で流れている「月光」を、この場で聞くことが出来たら、さぞかし稀代の名演奏だろう。




レンはその日も朝まで飲み続け、いつもの通りの本数を空けたが、ついぞ酔う事は無かった。オレも酔えずに、結局決着は今日もつかなかった。二人してホテルの部屋で、ピアノを弾いた。



レンに「月光」を弾けと言うと、彼はそれを難なく弾きこなした。第一楽章を彼らしくなく非常にゆっくりと奏で、そのゆらゆら甘い恋心を奏でて見せて、可愛く可憐で軽快な第二楽章を経て、第三楽章では対照的にそれは激しい恋の心の内を見せた。その稀代の名演奏は、オレの心の中にだけ、そっと、しまわれた。


誰を思って弾いたのかは、聞くまでも無かった。


「コレがオレの音だから、彼女が弾いてもし迷ったら、指導してあげて。オレの音、覚えられるだろう?」


彼女がレンに好んで弾かせたという、「愛の夢」を、レンはオマケにつけて弾き、静かに、目を伏せて笑っていた。


彼女はレンの弾いた「愛の夢」を、いやというほど覚えているだろう。オレが指導するまでも無く、甘くレンの音で弾きこなし、オレにレンへの恋心を見せ付けるのだろう。


「レン、キョーコは任せて、お前はお前で心置きなく世界にお前の音を見せてくるといい。大丈夫。お前は成功する。世界の音を聴き続けたオレが保証するよ。」
「はは、それはお前の高校時代からの口癖じゃないか。」
「だから昔からオレは・・・お前は大丈夫だって、言っているじゃないか。オレの耳は世界一なんだ。信じろ。じゃーな、レン。また仕事で会う時にでも・・・・・キョーコがいかにオレの指導で世界最高のピアニストに変身したかの報告するよ。」
「楽しみにしておくよ。でも彼女に無理だけはさせないで。あの子は一度やると決めたら・・・指が壊れるぐらい必死に練習をしてしまうから。」
「分かったよ。じゃあ、レン、気をつけて。」


レンが一足早く、フランスからウィーンに先に飛んだ。誰もいなくなったフランスに最後一人残ったオレは、仕方が無いからレンから預かっているレンの家の鍵を持って、レンの家へ行き、先日直したピアノを弾きに戻った。

レンは、使うなら好きに家の中のものを持っていっていいと言った。レンの家の中には音楽家なら家ごと欲しいようなものばかりが埋まっている。フランスに仕事に行くときは、暇つぶしには困らない。貰った事などもちろん無いが・・・・。


調律する時にピアノの上に置いてあった楽譜を、邪魔だからよけてあったのを思い出し、棚から取り出した。


随分と昔の楽譜なのだろう。
少し日に焼けて黄ばんだ、五線譜。
幼い子供のような字で書かれた、音符。


少し音符を追ってみると、それはミサ曲の一つだった。
レンの字体に似ていた。
レンが昔、五線譜の練習に書いたのだろうか。




『キョーコちゃんが泣き止む歌。』




タイトルにはそう書いてある。
なんて書いてあるのだろう?
日本語の「ミサ」の意味なのだろうか。





読めなかったから、キョーコにでも聞こうと、初めてレンの家からそれを拝借し、「レンの子供の頃の字」でも見せてあげようと、土産に日本に持っていった。キョーコは、それを見て、あっという間に泣き出し、オレの腕の中で後にも先にも唯一真っ赤なウサギ目になった。



しばらくして、キョーコから、その漢字とヒラガナの意味を教わったとき、なぜレンがコレをピアノの上に残して、あのピアノを長い事閉じたのかを思った。



キョーコがウサギ目になるこの楽譜は、二人の小さい頃の大事な思い出の曲なのだという。



月の光の下、キョーコはその日のピアノの最後に必ず、大事そうにそれを弾く。まるでレンと話しでもしているかのように、それは愛しそうに鍵盤に指を滑らせる。その時間を心から大事にしている。彼女はレンを心から愛しているのだと、思う。それは大事そうに弾き、その日の最後の楽譜を閉じる・・・。




二人の結びつきは、とても強く、そして、切ない程、それを繋ぐのに懸命だった。










2007.03.27