Daydream 20  -Madchens Wunsch≪乙女の願い≫-





「ねえ、敦賀さん。」
「ん?」
「今度の、公演が、終わったら。」
「うん。」


――今度の公演が終わったら。


全ての言葉を飲み込んだ彼女の唇を割った。オレの仕草に、視線に慣れて、見つめるだけで、優しく受け入れてくれる。ゆるゆるその柔らかい唇をもてあそび、離す。抱きしめて、幸せそうに優しく微笑む彼女を見つめる。

唇を割ったところで時間は止まらないし、彼女が傍にいる時間も限られている。彼女が自分で付けた跡を、確かめるようにすりすり、とオレの首元を撫でる。



――オレの肌を吸い上げて口付けられ、
――痕を確かめながら頬を染め、
――「私の」と言われた瞬間。


どうしようもない愛しさがこみ上げて、・・・・・それは彼女もおなじだったのか・・・・気づいた時には互いに互いの服を剥ぎ取っていた。雪崩れ込むようなシーツの隙間、一瞬の隙も与えない口付け、オレを呼ぶ、ひっきりなしの彼女の声。何度もその瞳から涙が零れる。求め合うたびにその引力が増している気さえする。



あぁ、一体どうやって、この愛しい子を「割り切る」というのだろう・・・・・・・。




彼女も、オレの余裕の無さや不安を肌で感じ取っていたのか、ゆっくりと慈愛に満ちた優しい愛撫で頬を包み込んでくれる。いつもオレが彼女に言い聞かせるように、「大丈夫」と・・・その目が言ってくれている。


「今度の、公演が終わったら・・・・。」
「うん。」
「時間がある限り、敦賀さんと、フランスを、お散歩したい、です。」
「・・・・そうだね。」
「たくさん手をつないで、たくさんいろんな場所に行って・・・・日本じゃ出来ないことをたくさん・・・・。」
「うん・・・・。」


彼女が探したオレの左手。握って、離す。
そのまま頬にオレの左手を持っていき、添えた。
オレは、そのまま頬を指で撫でた。

「大きい、手。」
「・・・・・・・・・。」
「何オクターブもあっという間に届く指。ピアノを簡単そうに弾く指。」
「そうかな。」
「そうです。敦賀さんが弾くとなんでもメソッド。」
「はは・・・。」
「今は、私の。」
「キョーコちゃん・・・・。」
「うふふ。」


にこり、と笑顔を浮かべた彼女の笑顔の意味を、どこまで推し量っていいのか分からず、彼女がしてくれたようにそっとその頬を包んで撫でた。そして、その身体を引き寄せる。


「誘ってる?」
「いいえ?」
「そうかな?」
「そうです。くすくすくす・・・。」



*******


甘く穏やかな、日々。公演日が迫り、フランスに残ったレオが、好意で手馴れたようにオレ好みに今度の舞台用の調律をしてくれたのは助かった。レオは土屋さんと共に行動しているらしかった。そして、オレの舞台を見てイタリアに帰ると言う。

レオは昔から、自分で弾くことにはそう興味がなく、根っからの音楽鑑賞家で、自分が調律したピアノを弾いて貰うことに喜びと誇りを持っていた。弾かせれば下手なそこそこの音楽家より巧いのに、本人はオレが部屋で弾く音と比べて「力が無い」と言った上、全く自分の弾く事への技術には興味が無い。あくまで弾くのは音を確かめるためだけのたしなみであって、澄んだ音が出るピアノを作ることにだけ、興味を持っていた。

あと付け加えるとすれば、女の子を褒める事にだけは長けている・・・・と言ったところだろうか。オレもレオも共に「思いを寄せてもイギリスにはずっといられない」と割り切っていたから、レオにとっては恋を楽しむ、褒めて愛して、その女を綺麗にするのが趣味だった、というべきだろうか。とても愛して、綺麗にして、その女性の事を純粋に好きなのに、わざと、振られるように仕向ける。深入りし過ぎないように、相手が満足するように、相手から振らせる。公然と既婚だと知った上で土屋さんを口説いたのだって、その時付き合っていた女の子から振って貰おうとしたがためだった。

レオは人に対する愛情が深すぎて、割り切ることが出来ない。だから、相手から「割り切らせる」。人の事を言えた性質ではないが、とても不器用な恋愛しかできない。そして、明るい声で「彼女に振られたから飲みに行こう!」と言って、オレを巻き添えに夜通し飲む。飲む理由が欲しいのだろうか?と思うほど、楽しそうに、飲む。レオの明るさはまるで、過去の偉大なる音楽家達が、恋愛が上手くいかない不幸のどん底で、ものすごく明るい曲を書くような、そんな深さを秘めていて、どうも昔から相手をしてしまう。

いつか、自ら振らせるように仕向けても仕向けても戻ってくるような、彼を心から深く愛してくれる、そんな女性を待っているようにも思える。いや、オレが単にそう思っていたいのかもしれない。オレがこの子に救われたように、彼を救う誰かがいる事を。


「レオ。」
「何?」
「お前、日本に興味、ある?」
「興味?キョーコにならあるよ。」
「そう。それはいい。」
「おや、オレのだって、怒らない訳?」
「怒らないよ。もう傍にいられないからね。」
「・・・・・・分かったよ。そんな顔するなって。」
「一年だけ、お前の時間を、欲しい。」
「そうだなぁ・・・音楽堂の調律はどうするかな。仕方ないからじーさんに人見繕ってもらうか・・・。そうだ、花屋の人もいるんだ!」
「・・・・・恩に着るよ。」
「なんたってレンの頼みだからね・・・・ホラ、それに日本の女の子もイギリスと一緒でとっても真面目なんだろう?口説き甲斐があるじゃないか!土屋女史も、新しいプロジェクトを立ち上げるって言っていたしね。仕事はどこにでも落ちているからさ。今度はオレが、キョーコとポラ撮ってレンに自慢するんだ。だからそんな顔、本当にやめてくれ。お前じゃない。」


レオに、彼女の傍にいて貰うことをお願いしたのは、本当に自分の我がままと、そしてこの後、割り切らねばならない事で、(多分)、不安定になってしまうだろう自分の音への怖さ、もあった。恋愛のせいでスランプになる、そんな音楽家は過去にも現在にも、ごまんといる。限りなく、その中の一人に近づくのは目に見えていた。突き放せないのなら、せめて手の届く所に置いておきたい、レオは、そんな口に出来なかったオレの感情を全て察して、1年間彼女の大学の調律課の臨時講師になる事を快く承諾した。そしてその一年後、必ずイタリアに留学させて彼女を自分の手元で教える、ということをじーさんに約束させられたと言っていた。


「敦賀さん?どうしたんです?食事、止まってます。」
「あ?あぁ、なんでもないよ。ゴメン。」
「キョーコ。レン、ニ、ヤサシク、スル!」
「はい・・・?今日は、日本語お上手、ですね。」
「ソウ?オレ、スゴイ♪」


レオの明るさが、今も昔も、オレを救ってくれた。



********



次の日の朝、とても早い時間に、彼女は既に着替えて、オレを起こした。


「ねえ、敦賀さん、おはようございますっ。起きて下さいっ。」
「・・・・・おはよう・・・・。」
「公演が終わったら、お散歩、行こうって約束してくれました。」
「あぁ、そうだね。朝は日曜ミサにでも行って八時からの回に出る。お昼を食べて、教会からすぐ近くの国立公園なら、沢山見るところがあるよ。横の美術館に行ってもいいしね。」
「敦賀さんの、おすすめならどこへでも。」
「うん。音楽以外のことを沢山しよう。」
「はい。」



着替えて朝食を取り、八時の回のミサに出るために、ある教会の前まで歩き、中へ入る。開放された教会に、家族が沢山入ってくる。

どこもかしこも、見覚えのある、全く変らない、とても懐かしい教会。

「そういえば、私、聖書、持っていません。」
「いいんだよ。ここはね、オレがいつも日曜日に通っていたところだから。神父も変ってないみたいだしね。ただ、座っていればいい。この教会はそこに居る者を、誰でも受け入れる。」
「そう、ですか?」
「この教会の神父が、特にそういう考えだからね。聖書があろうとなかろうと、貧しいカッコだろうと綺麗なカッコだろうと、この椅子に座る限りは、許してくれる。」
「はい・・・。」


彼女はきょろきょろ、と広く、天井の高い聖堂を見回す。歴史のあるステンドグラスの装飾に目を輝かせていた。沢山の人が集まる中、一番後ろの席に腰をかける。1000人も収容する大きな教会。昔からこの席に座る人間は、殆んどいない。


時間になり、ゆっくりとパイプオルガンの音が流れ始めて、子供たちの声が響くミサ曲が始まった。彼女は歌えないまでも、その音を目を閉じてうっとりと聞き入っている様子だった。神父の儀式が始まると、フランス語だけに全く意味が分からなかった様子で、ただ、背筋を伸ばして、神父を見つめていた。

一通りの儀式が終わり、閉会のミサ曲を聞くと、彼女は驚いた顔をして、オレの顔をじっと見つめた。オレは小さくそれを口ずさみながら、にこりと笑って返し、そして彼女の手を取った。彼女は、ぎゅ、と手を握り、そして、声も無く、静かに、涙を流し続けた。

最後の一人が帰るまで、彼女はオレの手を離さず、そして神父は、いつまでも涙を止めない彼女の前で「お嬢さんに幸あれ」と優しい笑顔でそう言って、その後オレを見て、「本当に久しぶりですね。お元気そうで何よりです。貴方にも幸ある事を願っていますよ。」とだけ言って去っていった。


「キョーコちゃんにね、幸あれ、と神父が言っていたよ。」
「敦賀さん・・・・。」
「うん?」
「ここへ連れてきてくれて、ありがとうございます。」
「何か、許された?」
「はい・・・。」
「そう・・・。それは、良かった・・・・。」


どうしてもここに連れてきてあげたかった。最後に歌ったミサ曲は、川辺で泣いては現れ、オレの小さな腕の中で泣き止まなかったキョーコちゃんを抱きしめながら、何度も歌ってあげた曲だったから。言葉は通じなかったけれど、ピアノを習っていたキョーコちゃんは、最後別れるときにはその音を諳んじていた。

小さい頃、物心もつく前から聖歌隊に入っていたオレの、唯一の特技は歌うことだった。声変わりをして歌うことが特技で無くなった時、全てを失わずに済んだのは、たまたま歌の合間に手習っていたピアノを、「コーンも世界で一番のピアノを弾いてね?」と言ったキョーコちゃんのおかげでピアノが合間でなくなったから。そして、今があるのも、キョーコちゃんがオレにくれた、約束、のおかげ。だから、どうしてもあの歌を、聞かせてあげたかった。


小さい時も、今も、言葉など通じない歌。けれど、言葉は要らなかった。あの歌を、彼女が今でも覚えていたのが単純にとても嬉しくて、やっぱり泣き止まない彼女の手を引いて、そのまま近くの国立公園まで歩いた。


「ねぇ、キョーコちゃん。」
「はいっ・・・。」
「泣き止まない?」
「だ、だって・・・・・だって・・・・あ、あの歌はっ・・・・。」
「おいで。この公園はね、カップルが沢山いる場所がある。そこなら抱きしめてあげられるから。」


手を引いて、公園の奥の大きな泉のほとりに出た。沢山のベンチと、青々と茂った芝生。ミサを終えた恋人たちが、待ち合わせてコーヒーを片手に一休みをする場所。出張しているコーヒーショップのコーヒーを2つ貰う。


「はい、コーヒー。こっちはミルクたっぷりにしておいたからね?」
「もう〜〜〜。」

腕の中の目が真っ赤の彼女は、美味しそうにそれを口にした。

「きっと、リストの「泉のほとりで」はこういう、素敵な風景で作曲されたんでしょうね。」
「そうかもしれないね。」
「今度、弾いてください。」
「そうだね・・・本当にリストはオレの得意分野になりそうだ・・・。」


周りの恋人たちは、思い思いに口付け合い、抱きしめあっている。それはとても穏やかな表情と風景であって、誰も恥かしがるような事は一切無い。腕の中の彼女も、周りがとても穏やかな表情をするせいなのか、恥かしがる事もなく、身体を寄せてくる。


「いいなあ・・・・。」
「うん・・・・・?」
「ねぇ、敦賀さん・・・・ショパンコンクール入賞しましたけど・・・・願い・・・・乙女の願い・・・は弾けますか・・・・?」
「うん、弾けるよ・・・・イヤという程練習したかな・・・・あれもリストが編曲しているだろう・・・?」
「あれも・・・弾いてください。」
「うん・・・。」
「あの曲の、歌詞を、知っていますか?」
「もちろん・・・知らないショパンコンクール入賞者がいると思う・・・・?ヴィトヴィツキの詩、の事だろう・・・・?」
「・・・・鳥に、なりたい・・・・。」
「キョーコちゃん・・・・。」



あの歌詞はショパンをやるものなら、誰でも、目にするもの。彼女がまた、言えない全ての言葉を飲み込んで、言いたい事を我慢する。オレは、また唇を割る。周りの恋人と同じように、腕の中の彼女に口付けて、微笑む。すりすり、と彼女の紅いオレの印を撫でると、彼女が付けたオレの首元の紅い痕を、優しく撫でる。



互いが、互いの、モノ。



「敦賀さん・・・・乙女の願いは、いつでも、たった一つなんです・・・・。本当に、たった一つだけ、なんです・・・・。そのたった一つさえ、私はいつも叶わないんですけどね・・・・・。」



『乙女の願い』は、ただ一つ。


『世界中のどこでもない、貴方のすぐ傍にいたい』。



・・・・・・・・・・・・・・・・。


ヴィトヴィツキの詩を要約すればこうだ・・・・。


――もし、鳥になって空を飛べるなら、世界中のどこでもない、ただ、貴方の傍で飛んでいたい
――もし鳥になって歌が歌えるなら、世界中のどこでもない、ただ、貴方の窓のそばで、歌を歌いたい
――もし、鳥になれたなら。




「昔ね・・・・「キョーコちゃん」が泣いていないか心配でね・・・・もし泣いていたら泣き止むように・・・・遠くからでも「キョーコちゃんが泣き止む歌」が届かないかと思って・・・さっきのミサ曲を・・・・・この街の近くにある、オレの育ったウチの窓辺でよく歌っていたんだよ・・・・。」

「・・・・・泣きやむ歌は歌わなくていいですから・・・少しだけ泣かせてください・・・・。」



身体を預けていたのを反転させて、彼女はオレの胸に顔を埋める。
せっかく泣き止んだのに、また泣かせてしまった。
腰を引き寄せて背中を撫でる。




声を立てずに泣いて、腕の中でひくつく背中は小さくて、出会った最初の頃を思い出す。いつも泣いていて、オレにストレートに感情をぶつけていた頃の事を・・・・。
「貴方なんて大嫌い、約束なんて大嫌い、もう、男なんて好きにならない・・・・。」
「どうして男の人は・・・割り切ってとか・・・・気に入ったらとか・・・・言えるんです。私はそんなの出来ないのに・・・・・。私はいつでも「本気」なのに・・・・。」





とある乙女の願いも、オレの願いも、全く同じ。



――あなたのそばで。




あぁ、一体どうやって、この愛しい子を・・・・。






オレたちはしばらくの間、この公園の中らしい、とある恋人同士の一つの風景に、なった。








2007.03.05