第三部

【Daydream 18 -2 Rhapsodien op.79 《二つのラプソディ》-】





彼女が、オレのために、泣いた。





ただ、それだけの事実を、心安らかになど受け止められる術もなく、ただ、頬をなでるしか、出来なかった。ただ、苦笑いだけが、浮かんだ。

彼女は全て理解して、いたのだと。最初はどうして、オレを選んだのかを、聞くまでも無く、オレは彼女に迫った。口付けたが最後、オレは自分を止めなかった。彼女がどうして、どんな気持ちで、ずっと傍にいたのかも、見ないフリをしたまま…。


オレが、彼女を、愛している事実に変りはなく、ただ、不破が口付けたというその唇を何度も侵して、確かめた。


「蓮、れん・・・・」
「キョーコ・・・・」


二人で呼び捨てあえる時間。それが、この後あとどれくらいあるだろうと思って、腕の中で幸せそうに微笑みながら眠った彼女の、涙の跡のついた頬を、ゆるゆると撫でた。

その柔らかさを忘れないと、思ってみても、忙殺の日々、彼女が傍にいない時、どうしてもその肌を確かめたくなる。


その夜、彼女が眠る前、オレの手を探したその指が、どれだけ愛しかったか。握り返して、引き寄せた時の、安心した顔に、どれだけ救われたことか。きっと、気付いてないんだろう。



――オレが、オレであるために、君が欲しい。


単なるオレの我侭で、始まったゲーム。
それを気付いていて、受け入れて、そして許してくれた。

彼女は、オレが気づいていた事に、気付いたから、真っ青になったようだ…。彼女が、「キョーコちゃん」だと気づく前にはもう好きだったことを、いつか話せる時が来るだろうか。


こうして、彼女の休みをいいことに呼び寄せてしまったけれど。この一ヵ月後からは彼女は傍にいない。彼女も、多分、日本で先生に師事しながら、世界を目指すだろう。そしてまた、新たな師に付くだろう。オレは彼女を世界に出すと約束したから、ピアニストとして、彼女の音を世界に出してあげたいと思う反面、オレの、オレだけが知っている彼女の音に乗せたカタルシスを、他の師が引き出すのは我慢ならない。彼女の本当の音を知っている唯一のオレが、先に全てを引き出し、彼女の音を確立させたい。


そんな、オレの、彼女への最後の我侭が、始まった。



*****


次の日の昼。とある見慣れた花屋にいる。花が敷き詰められた店頭と、ガラス張りの中にはピアノ。彼の家が代々使用している由緒正しきピアノだろう。

きょろきょろ、と奥の勝手口を覗いた彼女は、「すみませーん」と声をかけながら更に奥へ行き、また戻ってきた。

「敦賀さん、レオさん、いないみたいです。」
「そう?」
「じゃあ、この間の歌劇場のいつもの席で、何か見ているんだろ。」
「せっかく夕飯ご一緒できると思ったんですけど。」
「いいよ、どうせもうすぐ帰ってくる。そこにあるピアノを借りよう。」
「え??」


どうせレオ以外の人間などこの花屋にいない。正直商売をする気は無いようだ。花や鉢植えを、ましてやピアノを盗まれても知らん…と思う傍ら、彼を敵に回してはこの狭い街では生活できない事を、彼らは十分知っている。しかも、街中の人間、観光客がこの石造りの町に似合わない、石造りの基礎に前面がガラス張りで出来た不思議なこの店を見ていく。

彼の店で勝手知ったる振る舞いをするオレたちに、何をするんだと声をかけるものも無い。彼らは、オレが一昨日あの国立歌劇場で演奏をし、レオに許された人間だと気付いているからだ。

「その花を。」

老人が、一人、入ってきて指を刺した。金額が書いてあったから、「売る事は出来るがラッピングは出来ない」と英語で返事をしたら、彼は「いいよ。」と言った。

「敦賀さん、私、そのお花包みますね。」
「うん?できるの?」
「演奏会で頂いたお花をよく持って帰るのに包みましたから。」

彼女が鼻歌混じりで、透明のラッピング用フィルムの巻かれた筒を引っ張り、縦にハサミを入れて切る。老人が水受けから取り出したヒマワリ五本。彼女は「レオさんならきっと許してくれます」、そう言って、もう三本ヒマワリを取り出すと、もち手処理をして、くるくるくる・・・と器用に透明フィルムに巻いた。そして、彼女は渡す相手が老人だというのに、ピンクと赤のリボンをダブルにかけて、嬉しそうに、「はい!」と、その老人に渡した。

「ありがとう。」

にこりと笑った老人は、オレが金額を言う前に、「ヒマワリ八本分の」お金を置いて、もう一度「可愛いお嬢さん、どうもありがとう。来世でぜひ恋人に。」そう英語で言って、出て行った。

「英語お上手でしたね〜。」
「イタリア人は年寄りだろうと何だろうと口は上手いらしい…。」
「い、いーじゃないですかっ・・・・可愛いって言ってもらってイヤな人はいません。」
「英国人もそう言われ慣れている訳じゃない。レオの褒め言葉という名の軽口に、どれだけの女の子がその身を捧げたんだかしれないね。まあ名誉の為に行っておくと、あいつがいつも振られるんだ。誰にでも愛想が良すぎるってね。日本人もそんなに言われ慣れてないだろ?「可愛い」でいいなら毎日でも言ってあげよう。」
「む、む・・・・。そういうことじゃなく〜〜〜。」
「くすくす・・・・分かってるよ。君はすぐに真に受ける。ま、それが面白いんだけどね。」
「敦賀さん、私の為にピアノ、弾いてくださいっ。」
「おや、ここでそれが出るんだ?」
「からかった分ですっ。」
「いいよ?何がいい?」
「敦賀さんが今の気分で選んでください。ただ、敦賀さんの音が聞きたい。」
「じゃあ…。」

ブラームス「二つのラプソディ」を選んだ。重厚なオクターブの音の並びと早い旋律。彼女はオレらしいと、傍で笑った。今の気分。そう問われて、幸せなのに苦しい。希望の果ての絶望。キョーコちゃんとキョーコ、出会いとそして別れ。何か二つの強い力に心を裂かれそうな気分。


「あの…」


弾き終わって彼女の表情が見たいと振り返ったら、その彼女の後ろすぐ、ガラス張りの外にギャラリーが出来ていた。「レン」と名前が飛び交っていた事に気づいて、笑顔を返してごまかした。すると、今度は拍手が起きて、なお更自体は大きくなってしまった。

「あ〜〜…」
「敦賀さんて…イタリアでも有名なんですね。デビューして間もないのに…。」
「あぁ…オレがモデルやってるブランドの本場はココなんだ…顔だけは多分街中に貼られているポスターで…。」
「そうなんですか・・・・?でもどうしましょう。皆さん帰る気なんて無さそうですよ?」


諦めて数曲弾き、彼女に「弾いて」と頼んだ。「えぇぇ〜〜〜」と言ったものの、レオのピアノに既に「大帝レオ(彼女いわく有名なライオンか何かの名前らしい)」と名づけて、猫でも撫でるようにすりすりと撫でた後、彼女も、「二つのラプソディ」を弾いた。驚いた。まさか即興楽譜なしで弾けるとは思っていなかった。しかも教えてないのにほぼオレと同じ解釈音を表した。即刻耳で覚えたというのだろうか。とはいえ素人耳には同じ曲が流れた、程度だろう。彼女の為に向けられた拍手も、暖かかった。照れながらギャラリーに頭を下げた彼女は、椅子に腰掛け直して振り返った。


「二つの狂詩曲。幻想的で、胸がしめつけられる切ない曲です。」
「そうだね。」
「なぜ選んだんです?」
「うん・・・・何となく。」
「?」
「オレの、勝手な感情だよ。」
「たまに敦賀さんは私の分からない事を言います。」
「分からなくて、いいよ。単なるオレの、カタルシス。君は得意だけどね。たまにはオレがそうしてみるのもいいだろう?」
「カタルシス・・・・?」

神妙な顔をした彼女は、じっとオレを見つめた後、もう一度ピアノに向き合い、愛の夢を弾いた。オレの弾いてみせる音では無かった。これは多分彼女の音、なのだろう…。久しぶりに聞いた・・・・。ギャラリーから目を逸らすように、そっと、目を、閉じた。

「私の、カタルシスです。」
「うん・・・・・弾いてくれてありがとう。」


少し頬を染めた彼女は、ピアノを拭き、鍵盤の蓋をそっと閉めた。「おしまいです。」彼女は、ギャラリーに向かってはにかんだ。

「・・・・・もっと弾いていていいのに。もっと聞きたい。」

レオが帰って来て、静かにそこにいたのを、彼女は気づいてなかった。

「あ、レオさん。こんにちは。ピアノありがとうございました。」

レオは頭を下げた彼女の横に立つと、髪に指を入れて、頬に挨拶と言って、口付けていた。彼女は慣れないのか、びくり、と小さく震えて固まった。

「レオ。」
「おお怖い。キョーコ?店の花も、キョーコのピアノの音に喜んでる。」
「あの?喜んでいるのが見えるんですか?」
「ハハ・・・キョーコ、ヤッパリカワイー。」
「そうですよね。み、見えるわけ無いですよね…。」
「いや?いい音聞かせた鉢はよく育つし、花は長持ちするよ?だからレンに直接いい音を沢山聞かせてもらうんだね。もっと綺麗に咲けるし、可愛くなれるよ。」

一瞬ぽかん、とした彼女は、その後ひどく照れてオレの後ろに隠れ、「敦賀さん」、と言って、ヘルプを求めた。

「・・・・・レオ。」
「ふふん。オレにもお前をからかう日が来る事を待ってたんだ。いいじゃないか。」
「まあ、勝手に花も売ったし、勝手にピアノも弾いたからね。にしても相変わらず耳はいい。このピアノ、年代モノなのにしっかり生きてる。」
「そう?ありがとう。こうして弾いてもらえるとピアノも喜ぶよ。それはそうと。キョーコ!じーさんに花を売ってくれただろ。」
「おじいさん?」
「背の低いじーさんが来ただろ?イタリアで音楽したきゃ、あのじーさんを落とすのが一番。海外のコンクールの審査委員長もやってる。さっきまでそこにいたよ。君は本当に何かの縁があるんだろう。オレに会い、じーさんにもあった。じーさんが、もし留学したきゃオレに声かけろと言っておけと、言っていたよ。レンの音を瞬時に理解する君を見ていて興味を持ったらしい。この間の演奏会、オレのもう片方の隣だったんだ。」
「・・・・・・?????敦賀さん、何て言っているんです????」
「君はオレにもレオにもあの偏屈じいさんにも会ったって。」
「え?あのおじいさん知っているんですか?」
「知ってるだけだけどね。初めて直接顔を合わせた。」
「オイ。ズルイな。オレはレンの名前は言ってない。」
「オヤ、日本語理解しているんだ?」
「それぐらいなら分かる。それに、留学の話は?」

こんな所で彼女に言う話でもなく、割愛した。
英語が飛び交う中、彼女はついに参ってしまったらしい。

「敦賀さん、降参です。英語もう分かりません。」
「あぁ、ゴメン。ついレオ相手だと…ね。」
「レン、オレニモテカゲンシナイ、キョーコ。」
「ふふ・・・・とっても仲良しなんですね、敦賀さん。」
「あぁ、そうだね。まったく…。」

ふぅ〜と大きな溜息をつきながら、一本のヒマワリを取り上げ、「貰う」と言った。

「オレがいるのにそんな一本ばかりではダメだね。食事行く前に待っていて。念願のキョーコの音は聞けたし、御礼に花束をキョーコの為に作るからね。間違ってもレンのためじゃない。」

レオはどうしてオレがこの花を一本だけ取り上げたのかは知らないだろう。あの遠い昔の夏の日、オレが最後別れるとき、彼女に小さな石と共に、川辺に咲いていたヒマワリを一本だけ貰ってプレゼントしたのを、彼女は覚えているだろうか。


「キョーコちゃん、泣かないで。」
「はい・・・・・・・。」


あの時と同じ台詞を言ってみた。
既に伏目がちに目を潤ませた彼女は、オレの手を探し、握った。
その彼女の手を、オレも、握り返した。




*****



ローマの休日は、思ったよりも早く過ぎて行った。
彼女を連れて街中を歩くだけでも楽しかったからだろう。

もう一公演を済まし、ローマのホテルに戻る。
部屋に飾られた花束と、一本のヒマワリ。
そして、彼女の嬉しそうな笑顔が出迎えてくれる。
小さな身体をそっと抱きしめる。

「お帰りなさい。」
「ただいま。」

待っていてくれる人がいる、そんなママゴトのような嬉しさが、体中を伝う。
部屋にあるピアノで、彼女と遊び、彼女を腕に眠る。






手に入れた喜びと、失う怖さ。




真夜中に、思い描いていた白昼夢を、見る。





彼女を手放さなければならない日が、くる。
追い続けた日々よりも、それは苦しいだろう。




フランスに向かう飛行機の中、横で目を瞑る彼女のピアニストらしい繊細な指が、毛布の下を潜り、オレの手を無意識に探し出す。そして、きゅ、と握るその指が愛しくて苦しくて、初めて彼女を前に、涙が零れそうになった。



――「なかないで、キョーコちゃん。」



遠い昔のあの言葉は、別れたあの日、自分にも必要だったのを、思い出していた。









2007.01.07


各種辞書参考:カタルシス
文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放されること。特に悲劇のもたらす効果が大きく、アリストテレスが説いた。抑圧された心を発散する事で精神的浄化をもたらす。