【Daydream15 -Traumerei《トロイメライ》】


「キョーコちゃん、一・二ヶ月海外に行くんだって?」

オーナーは視線を上げずに持っていたグラスを丁寧に拭き、コトン…と軽い音を立ててグラスを置いた。

「はい…折角バイトさせていただいていたのに…すみません・・・。この間からお休み貰っていましたし、また随分と間が空いてしまうので、一度リストメンバーから外してもらおうと思いまして…。」
「・・・・・・。その方がキョーコちゃんが納得いくならそうするけど、でも何ヶ月行くか分からないけれど、戻ってきたらまたおいで。リストに戻してあげるから。言っておくけど雇ってあげるって意味じゃないからね。来て欲しい、の意味だよ。」
「あ、ありがとうございますっ・・・。」

オーナーにカウンター越しに深々と頭を下げた。
オーナーはにこりと笑って、「こちらこそ宜しくね。」と言ってくれた。

「じゃあ、一度締めのピアノ、弾いておいで。皆楽しみにしてる。今日の面子はもういつもの常連だけだから気にしないで好きに弾いていいよ。白鳥の湖だって、クラッシックだっていい。キョーコちゃんの好きに弾いて。」
「はいっ・・・。」

オーナーがくれたグレープフルーツジュースを飲み干して、背の高い椅子を降りた。

「キョーコ、オレにも何か。」
「・・・・・?あっ・・・あん・・・・ん~~~・・・!!」

大きな手で口をふさがれて、「まあ座れって。」と、一度降りた高い椅子を指差した。サングラスと帽子は被っているものの、襟足から金髪が見え、銀色のアクセサリーはチャリ…と音を鳴らし、黒いサテンのシャツと細身のジーンズという、いかにも業界人かミュージシャンです・・・と主張している彼の服装に、「久しぶり。頭隠して何とか・・・ね。」と思わず口をついて出た。

「こんなトコで大きな声あげるなよな。」
「おや・・・。」

オーナーはショータローを見てにこり、と笑うと、先ほど拭いて置いたグラスに生ビールを注いで置いた。

「どうぞ、不破君。コレはおごりね。この間の受賞おめでとう。」
「おっ、話が早い。イタダキマス。」

美味しそうに一口目のビールを喉に流し込んだショータローは、「うまい。」とオーナーに向かって満足したのか一言そう言って、グラスを置いた。

「何しに来たの。」

自分で発した声は、とても冷たかった。今一番見たくない顔。

「お前に会いに。」
「・・・・・・。」
「久しぶりに指慣らしの連弾でもしようぜ。」
「は?」
「散々弾いていたからな。出来るだろ?」
「なんで連弾…っ…。」
「…身体が覚えてるだろ。オレの音を追ってくればいい。」
「私・・・仕事中なの。」

そう言うとオーナーは横から「まぁまぁ・・・」と仲裁に入った。

「聞かせてよ。せっかくだからオレも不破君の音聞きたいし。」
「ドリンク代ぐらいは返せるかな。」

ふっと笑ったショータローは、「いいからやろうぜ」と言った。
オーナーの手前それ以上意地を張ることが出来なかった。

「曲はどんどん変えていくから。ついてくればいい。お前なら出来るだろ。オレが右側、お前が左側。懐かしいだろ。」

私なら・・・・出来るだろう。
追って追って、負けないように追って・・・・。


あいかわらず有無を言わさないショータローに引っ張られ、私には普段のピアノ椅子を左側に置き、自分用に適当な椅子を運んで置いた。


こういう無駄に気をきかせるところは変っていない。


「じゃ・・・」


と言って弾き始めた曲は、いつもの入り。きらきら星…三歳の頃から変っていない。その次はベートーベンの・・・その次はバッハ、その次はシューベルト・・・覚えた曲を次々とパートを弾き、アレンジを変えられてはそれを追っていく。これは二人の指慣らしだった。ハノンや基礎メソッドを毎日同じだけ同じようにやる事と同じだった。右側左側交互に・・・。新しく覚えた曲、覚えた運指、覚えた符号、それを忘れないように。


観客が引き込まれているのが分かる。観客は「私を」見慣れている。その「私と同じ音」を弾く彼、注目はこのちゃらちゃらした身なりの男に一身に注がれている。


息が合う。
合ってしまう・・・・だってコレは聞きなれた音、弾き慣れた指。


『身体が覚えてる。』



だってこれは。




15歳の時まで弾き続けた指慣らしの曲を全部思い出すでもなくアイツに合わせるように弾いていた。



「相変わらず負けず嫌いだよな、お前。」
「どっちが。」


弾き終えた一言目にそう言われ、「いつもと同じ返事を」「思わず」返していた。


「じゃー折角拍手喝采もらったから、もう一曲弾いてやる。」
「どうぞ。」

ピアノ椅子をショータローに返す。見慣れた客が「あの彼は彼だね?」と分かったように私に囁いた。ショータローはピアノの上に置いてあった楽譜に一通り目を通していた。一冊譜面台に置くと、椅子を引いて、そして高さをあわせる。ペダルに足を置く。



彼は・・・・ショータローは・・・「愛の夢」を弾いた・・・。



「な・・・・・・・。」



言葉が出なかった。すぐに脳裏に浮かんだもう一人の人物は、傍にいない。ざわざわざわといやな胸騒ぎがする。何故彼はこの曲を弾くのか、どうして私に会いに来たのか、どうして、どうして。



――今更幸せだった頃を思い出させないで。

――どうしてその曲を選曲するの?

――だって、この間「彼」が「パーティ」で弾いたのを見ていたはずなのに。


けれど、耳を塞ぎたいほど綺麗に澄んだ音がする。音に記憶と懐古心が反応する。もう一人の人物が私に弾いてみせる音は包み込むように限りなく優しい音。アイツの音は、澄んだ水のような音。聞きなれた音。どう解釈しているのか、その後どう弾くのかも分かる。


私は、ココを今すぐ逃げ出したかった。泣きそうだった。
けれど、泣く事は思い出したもう一人の人物の前だけ、と「約束」した。


あいつはそのままシューマンの曲を弾き始めた。「謝肉祭」。流れるように続く。謝肉祭は22曲の短い曲の連続。指慣らしに彼が良く使っていた曲で、ショパンの為に書かれた「ショパン」とサブタイトルがついた13番目。シューマンの譜面通りに直しなさいと先生に言われていたのに、変わらず少しショパンがかった弾き方に偏ったままのアイツの運びに内心笑ってしまったのは事実。懐かしいその音に気づいたら浸っていたけれど。第18曲目を弾いて彼は弾くのを止めてしまった。


そして、私が子供の頃から大好きだった「トロイメライ」を彼は弾いた。



トロイメライ。意味は「夢」。



私が夜泣いた時、慰めるでもなくあいつはコレを弾き、「寝ろよ」と無言で繰り返す彼の音に、何度も助けられた。


おねがい、もう、やめて。


音に引きずられる心に、涙が溢れる。ダメ、約束があるのに。
拍手が続いた。しばらくして傍に立った人の気配がした。


「キョーコ。」
「お願い、もう帰って。」
「悪いけど今日は話しがある。」
「いやよ、聞きたくない。」
「オレの部屋へ。」
「いかないったら。」
「オーナー、キョーコ連れて行っていい?」


椅子に座ったままアイツの顔を見ずに返答していた。オーナーには止めてほしかったのに、「仕方ないね」と言った。

「サンキュー。オレも時間が無いんだ。キョーコ。」
「・・・・・・・オーナー、また戻ったら連絡しますね。」
「気をつけて行っておいで。待ってるからね。」

仕方なくロッカーに荷物を取りに行く。下で待っていたアイツのマネージャーさんが私たちに向かって窓から手を挙げ、「後ろに乗って」と笑顔で言った。

「キョーコちゃん、久しぶりね。」
「はい・・・お久しぶりです。」
「3年ぶりぐらいかしら?」
「・・・・そうですね。」

ショータロー好みのその人は、相変わらず綺麗だった。苦笑いで運転を続けた。私には出来ない、長く綺麗に整えられた爪と指先が、ハンドルを綺麗に操る。

「祥子さん、学校へ。」
「分かってるわ。」
「学校・・・?」
「オレの部屋って言っただろ?」
「・・・・・・・。」


何年ぶりのアイツの部屋なのだろう。
けれど、入ったそこは、備え付けのベッドと家具以外何も無かった。


「・・・・・・・?何?何なの・・・?この部屋。」
「イギリスに留学する。」
「は・・・・?芸能界はどうするの。」

何でこの期に及んで留学。芸能界の心配なんて私がする事でもないのに、口をついて出た。

「休養に入ったよ。曲作りは向こうだって出来るしな。」
「そ、そうだけどっ・・・・。」
「最後にお前に会っておきたかったんだ。」
「な・・・・・・。」
「アイツ・・・・敦賀蓮のツアーしばらく付いて回るんだって?」
「・・・・・明日には私も空の上よ。」
「キョーコ。」

真面目な顔でじっと私を見ていた。視線を逸らす事が、できない。


「謝肉祭の第18曲目。分かってるよな。」


――第18曲目。『告白』。


「わ、分からないわっ・・・・。」
「なら言おうか。好きだったよ。」
「・・・・・・・・。」
「お前とピアノを弾くのがな。オレはお前との約束を守りに、オヤジと同じコンクールを受ける事に決めたんだ。」

動けない。何かを言ったらいいのか分からない。何も無い部屋で、ショータローの声が反響して、そして私の詰めた息が吐き出された。

「敦賀蓮と同じ講師に付く。しばらくお前とは会えない。もう、お前を護ってやる事はできないが・・・・「待ってろ」とは言う。」
「ず、ずるいっ・・・いつも「待ってろ」って・・・。」
「オレはずっとお前を「待ってた」。ようやく、コンクールに出ただろう?オレを追い抜こうとしただろう?次は、どうする・・・?オレはお前の少し先でまた「待ってる」。オレが居ないからって勝手にピアノ、辞めるなよ。まさか一介の講師になろうなんて思うなよな。」
「な、なんでアンタがそんな・・・」
「お前のピアノの音、好きだったからな。お前も、おまえ自身も好きだったよ。もう、しばらく傍にいてやれないけどな・・・・お前もハタチ超えて大人になったから、もう大丈夫だろう・・・?」


そっと頬を撫でた手に、涙が伝っていた。


私は約束を破った。泣いてはいけないと思うのに、急すぎる喪失感に涙が出ていた。ショータローは16歳の時には既に海外へ留学するはずだった。それを彼は辞めて芸能活動を続けていた。なぜ留学を辞めたのかを彼は私に言わなかった。彼は、無言で傍にいた。居なくなったら、私は「一人ぼっち」だった・・・・。ピアノを追いかける相手も、恋する相手も、傍に居る存在も、家族も、全て彼が一人で担っていたから。


「綺麗になったな・・・。」


目を細めた彼から、目を逸らした。逸らした隙に、口付けられた。


「っ・・・・・・・ふっ・・・・・・・・・・」


荒い口付け。逃げようとするのに、その腕も首元も、何もかもが高校生の時と違う。細いその身体の何処にこんな力があるのかと思うぐらいに強く、身体を引き寄せられた。


「つぅ・・・余計なテク教え込みやがって・・・。」

舌先を少しだけ噛んだ。アイツが先に離れた。

「敦賀蓮が好きなんだな。」
「・・・・・・や、優しいものっ・・・。」
「最初で最後のキスにしちゃ・・・随分だよな・・・。」
「む、無断でっ・・・するからっ・・・・。」
「好きだ。」

なんでそんなに近づいて言うの・・・・・。
そっと身体を抱えられて、腰に腕が回った。

「は、離して・・・。」
「少しだけ黙ってろ。明日にはお互い、日本ではない国だろ。婚約者の言う事は聞くもんだ。」
「・・・・・・・・・。」


骨ばった腕、ピアニストらしい指。それが目に入る。


「こうして抱きしめてやれば良かったんだよな・・・それだけで良かったんだ・・・。」


そういって、一度強く腰を引くと、離した。


「待っててやったんだぜ?お前が大人になるの。一人で勝手に大人になりやがって。」

そう言ったショータローは、「婚約は解消する。婚約者とはもう呼ばない。親なんて関係ない。でも今更だけどな、お前を愛してるヤツはもう一人ココにもいるんだって覚えとけ・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「お前ホント昔から泣いてばっかりだったよな。そこは変らねぇな・・・。」

頬を拭ったあいつは、「身体だけは気をつけろよな。それから、ピアノやめるなよ。」ともう一度念を押した。

「ふっ・・・うぅ・・・・。」
「ほれ、泣き止め。別に今生の別れじゃねぇんだ。また会える。」
「ん・・・。ピアノ、負けないから。もうアンタになんて負けてやらない。」
「そうそう、その調子でな。」

ぽん、と頭に手を置いたアイツは、「この部屋多分お前に行くぜ。ありがたく使え。」と言って、キーを私の手に落とした。そして、「じゃあ元気でな。何かあったら祥子さんに言えよな。向こうからメールぐらい送ってやる。」と言って、祥子さんを引き連れて車に乗り、そして居なくなった。


ぽつん、と広い空間に取り残された私から出た言葉は、「なんでアンタの部屋が私のになるのよ」。・・・涙声が部屋中に響いた。


空っぽの部屋。アイツのお気に入りのピアノももう無かった。楽譜を置いていた棚も空っぽで、けれどそこに一つだけCDが置いてあった。



――「トロイメライ」。



自分の部屋で聞いたそれは、アイツらしい澄んだ音だった。ケースに挟んであった五線譜に、「寝る子は育つ。しっかり寝て、お前の夢、叶えろ。尚」とアイツの字で書いてあった。


泣いてはダメと約束したけれど。
今日は、今日だけは、21年分の「夢」と共に、ベッドに入った。






2006.11.19