バラの融点9




『Under The Rose』



(中略)



そうして生きる事に精一杯で、自分という個を確立するのに精一杯で、生に手錠を掛けられ、繋ぎとめられて、生きている、無理やり生かされている、そんな事を考える息苦しいような日々が続いた。何が不満なのかさえ、自分で理解できない。ただ、心と身体をうまくコントロールできない。その本能的な何かの獲得欲だけが一人心の中で暴れた。



テレビを付ければ、最大に賞賛される誇らしげな人間の誇らしげな表情ばかりが並ぶ。その心の奥底に眠る彼をかき立てる正義と狂気は何なのか。人は望むと望まないとに関わらず、光の当たる場所を選んで歩いていくのか。



人の言う事、それが、本当の事なのか、そっちの水はそんなに甘いのか、その甘い水を吸ったら、大きくなるのか。


まるで鋭利な凶器で、周りの花を全て切り裂いて歩きたいような狂気が心に巣食う。バラの刺に絡まって、身動きが取れない夢など何度も見た。


自然は共生はするが、自然は自然自らを傷つける事はしない。
どうして、人は。
それも自然なのか。


光のあたる場所が羨ましくて仕方が無いのは、自分。



だから。
バラのように空を見上げ、光を見つめた。
吐き出したタバコの煙に、不安を隠した。
飲み込んだアルコールに、弱さを流した。



人の群れの中で埋没する自分の姿に納得が行かず、同じようなペースで歩いていく人間達の中で、「何かが違う」とだけ、理解できた。



生きているのに、無機質なのはその目だ。口からは、空気汚染でもするかのような誰かを卑下する汚い言葉が漏れる。耳には、苛立つクラクションの音がひっきりなしに入ってくる。そして綺麗ごとばかりが頭に浮かび、その音の洪水の狭間で苛立つ自分の頭。



伸びたいのにうまく伸びる事が出来ず、もがき苦しむのも、また花と同じ。
花に優劣が無いように、そこに優劣など、ありはしない。



誰もが空を求めて、わずかな光を求めて彷徨っている。
誰もが花の蕾を抱えながら、いつか咲くのを待っている。


空が、見ている。
空が、見つめている。
誰も見ていなくても。



心に大きな空を抱えながら、毎日花が咲く夢を見て、心で涙を降らせながら、その眠る蕾に優しい雨を注いでいる。



(中略)



蟻は、何の為にこんなに働くのかなどと考えていない。ただ、働く。木は、何の為にこんなに長い間そこに立っているのかなど、考えていない。なぜ、自分がそこから動けないのかなど、一切考えていない。ただ、空に向かって、枝を伸ばす。


花は何の為に咲くのか、などと考えて咲いていない。花を咲かす為だけに、次の季節の花を咲かせるためだけに、美しく咲く。


それがまるで自然の最も強い意志であるかのように、彼らは、生きている。


だからオレは、その日から、ただただ、バラを育て続けた。子供の頃のように、育てる事に意義なんて求めなくなった。ただ、綺麗に咲く花を咲かせる。その花に鳥が止まり、ミツバチが止まり、蝶が止まる。咲く意義は、自然が教えてくれる。咲いてさえいれば、そこに何か、意義がある。誰かが意義を付けてくれる。見つけてくれる。


そうしているうちに、次第に雑誌に載せたいと取材が来た。次に園芸の趣味の人間が庭を見に来るようになった。更には株分けを求める人が来るようになった。バラの農園で、バラを育てるアルバイトをした。多くの買い手がついた。そしてオレにバラの共同研究をしに、大学に来ないかと誘う推薦状まで来た。誰かが、自分に、オレが生きている意義を見つけてくれたのか。


バラは、オレを「生かして」いた。
その棘で、心に張り巡らされた重い枷を、断ち切ってくれた。


バラは、ずっと、知っていたのだ。バラが、そこに咲くだけで、教えてくれた。バラには意思がないのに。咲かせているのは自分だったが、実は教えられていたのは、自分だったのだろう。


だから、バラに、目の前のサラダに、庭の木に、感謝の祈りを捧げる。父が、いつでも言っていた、“オレの前に来てくれてありがとう”、という本当の意味を、心から思う。


そして、花に祈る。
いつか自分が枯れる日が来るまで、どうかこの地で『自然に』咲かせてください、と。
誰かが、自分の身体を、『不自然に』切り取る事がありませんように・・・・と。



(中略)



ある日父が、「前の家は、実は売ってないんだ」と言った。なぜ、今更そんな事を言ったのか理解できなかったオレに、父は、「お前が成人したら、お前にやろうと思って」と付け加えた。母が、「あなたがバラの当番をして、大事にしていたお庭だったから」と、付け加えた。人に譲ってしまうには想い出が多すぎたのだと、二人は言った。


成人を迎えた誕生日に、父は、昔懐かしい鍵をオレの手のひらに置いた。成人のお祝いと、誕生日プレゼントだよ、と言った。そして、次の夏休みにでも行ってみたらいい、と言った。今は、管理人が掃除と雑草を抜く作業だけをずっとしているのだという。


懐かしい庭が、一瞬にして脳裏に浮かぶ。昔植えたバラは全て今の家に持ってきてある。きっと、母が植えたアイビーが覆い茂っている事だろう。手入れのされなかった芝が枯れている事だろう。


すぐに前の家の見取り図をノートに描き、どの部分にどの花を咲かせ、どの部分にどのバラを植えるかを、まるで昔と同じように、鉛筆で名前と場所を配置し始めた。

父が横から「春用にマーガレットと桜の苗を取り寄せよう。それから夏にはヒマワリを、秋には綺麗なマリーゴールド、冬にはぜひクリスマスローズも咲かせてくれ」と口を出した。それを聞いた母が、「ママのアイビーもね」と加え、図面はあっという間に、花の名前で一杯になった。

あの庭の前で出会ったあの子は、元気だろうか、と、ふと思った。昔貰った手紙の住所に、手紙でも出してみようか。もう、忘れているだろうか。十年近く会っていない。

書きかけた手紙を、破いて捨てた。




***********




蓮だけが一人で撮っていた場面の映像を見せてもらったキョーコは、無性に蓮に会いたくなった。本の全てを注力して読んでいなかった。それとも、身内のように過ごす蓮が、画面の向こうでまるで他人のように切々と語るのがいけなかったのか。


一つ一つの言葉が、場面が、蓮そのものに思えてならなかった。ある日蓮はキョーコに言ったのではなかったか。あんな高い場所に住んだ理由を。「空を、近くで見たかったんだ」と言ったのは、冗談では無かったのではないのだろうか。本当は何かに苦しんでいるのではないのだろうか。


本が蓮そのものに思えて仕方が無いと今思うのも、もしかしたら蓮の策略の一つなのかもしれない。空が見たかった、などと言った言葉そのものも、この撮影を見越した言葉なのかもしれない。それでも。


蓮は今締め切りに追われている。現場のスケジュールとはうまく調整が取れているから姿は見えない。今はキョーコだけの場面が続いている。キョーコの役も生い立ちが続いた。そんなにいい場面を撮っているわけではない。だからこそ、この後、二人が出会う時、互いに互いを強く求めていくのだと自然と、思う。思えてしまう。


撮影後、蓮のマネージャーの社に電話を入れると、ホテルに篭りっ放しで、数日自分も会っていないと言った。だから蓮に連絡を直接入れた。出る事は無かった。



数日、だるまやの仕事を手伝いながら、美味しそうな食事を見るたび思ってしまう。蓮はしっかり食事をしているだろうか、と。食事を持って顔を見に行くとは言ったが、蓮は一分一秒を争う集中を強いられている。何度も行くわけにはいかない。



「キョーコちゃん、ここの所こっちにいるんだねぇ」

夜7時。だるまやの女将がそう言った。しばらく部屋を開けていたのに、ここ数日は撮影後毎日すぐ帰宅するのを、女将は嬉しそうに言う。大将は、無言でカブの皮を一人剥き続けている。



「え、ええ・・・またそのうち空けるようになるかもしれませんが・・・。それで・・・あの、大将、キッチンをお借りしてもいいですか?ちょっと、差し入れを作りたくて・・・・」
「ああ」


相変わらず表情を変えずに、大将は言った。横から女将が付け足す。


「おや、彼でもできたかい?」
「いえ、お仕事で原稿を取りに行っている先生が今ホテルでカンヅメ中なので・・・」

嘘ではない。明日は久しぶりにオフだ。今から用意して蓮に食事を持って行きたい。置いて帰ってくるだけなら終電までには十分間に合う。


キョーコはホテル食で飽きただろう蓮を考えて、和食を詰めた。詰める横から大将が十数時間煮込んだ煮しめを分けてくれた。詰め終わるとすぐにだるまやを出た。その様子を見て、女将が、

「やっぱり彼ができたんだよぉ、キョーコちゃん。あんなに急いで・・・。それに言い訳が可愛いじゃないの」と言ったのを、大将は返事する事無く無言でカブの皮をむき続けた。



*********


ホテルの前で、キョーコの携帯が鳴った。良かった、と思った。


「はい、最上です」
『あ、オレだよ。ゴメン。電話に気付かなかったんだ』
「あの、今、ホテルのロビーまで来ていて・・・・お部屋のナンバーをお聞きしようと思いまして・・・本当に差し入れを持ってきたのですけど・・・・」
『そうなの?808にいるけど・・・ロビーまで降りて行こうか?』
「いえ、今から伺います、渡すだけですから!じゃあ・・・・」


部屋のナンバーが分かってすぐにキョーコは携帯を切った。ぶちり、とあっという間に携帯が切れて、蓮は、思わず苦笑いを浮かべつつも、微笑んだ。


あっという間に部屋の扉を叩く音がした。


扉を開くと、キョーコが神妙な顔をしている。
蓮を見て言った言葉。


「大丈夫ですか?」


まさかそんな事を言うとは思ってないから、蓮は「え?」と言った。原稿はどうですか、とか、無精ひげに愛想の無い顔ではないですね、とか、そんな言葉が来ると思っていたのに。

「入り口で話しているのもなんだから・・・良かったら寄っていって」
「じゃあ・・・少しだけ・・・・。あ、ひげが無い!楽しみにしていたのに!」


招き入れたあと、キョーコは思い出したように言った。
蓮がそっと笑った。


「いつ来てもいいようにね」


確かに、部屋も整えてある・・・・というより、ほんとうに眠っていないのではないだろうか?あっという間にコーヒーを淹れて戻ってきた蓮に礼を述べながら、その顔をまじまじと見てしまう。


「?」
「寝て、ないですね」

少し目が落ちくぼんでいる気がする。

「あぁ、うん、そうだね・・・。でも、もう、終わりそうだから・・・・」
「多分、ホテル食に飽きていらっしゃると思って、食事を持ってきました」


ありがとう、と言ってすぐに包みを開けて「美味しそうだね」と言いながら、「撮影はどう?順調?」と続けた。


「あ・・・・・はい、ええ、順調です」
「何か、あったの・・・?」


やや歯切れの悪いキョーコの返事に、蓮が気付かないはずが無い。


「いえ・・・」


自分が今日来た理由を、蓮にストレートに話すのはどうも話しにくい。



「なんか、あの、その・・・撮影は順調なんです。ただ、敦賀さんが撮っていらした部分の映像を今日見させて頂いて、なんか、会いに行きたくなって、会いに来たんですけど・・・」

言いにくそうに言うキョーコに蓮は、ただ、「ありがとう」と言った。キョーコが何かに感応しているのは蓮にも理解できたからだった。


少しの間、二人の間に無言が続いた。
どちらが先に次の言葉を発するのか、そんな間だった。


先に、蓮が、続けた。


「元気?」
「え・・・?」
「久しぶりに会った気がするね。たった数日なのに・・・ここの所毎日、一緒だったから」
「はい」


ずっと一緒だったのが不思議な気がした。他人だったのに。先輩だったのに。妙に、くすぐったいような、気恥ずかしいような気がした。


「一人で原稿を続けていて、誰とも話さないのが続いて、無性に君の声が聞きたくなって、会いたくなったよ」

と、蓮が笑みながら続けたのを、キョーコは妙にドキリ、としながら聞いていた。

「ハァ・・・」
「大体ホテルにこもるときは仮眠しかしないから、ベッドでは眠らないんだけど、家ではソファで横になっていると、君が起こしてくれてたから、起きた時誰も居なくて、あ、ここはホテルだったっけ、と思ったり・・・・」


やはりベッドが乱れていない理由は、眠ってないからだ。蓮も眠っていない。だからそろそろ帰ろうと思った。ベッドしかない、蓮の部屋に比べれば随分と狭いこの部屋の中にいると、空間が狭すぎて、妙に変な気がしてしまう。


「そろそろ帰ります」
「・・・・そうだね・・・・。眠ってない、食べてない、人間が持ってる本能的な欲を全然満たしてないから、君が傍に居て、おやすみと言って抱き締めたら、きっと、人間の三大欲のうち残ったもう一つの欲が、働きそうだ」


おかしそうに笑った蓮に、キョーコは真っ赤になって、


「大丈夫です、そんな時しか働きませんから!」


と付け加え、慌てて立ち上がったところをあっという間に蓮の腕の中に抱きとめられて、


「おやすみ、最上さん」



ぎゅう、といつもの数倍、随分と強く抱き締められたあと、蓮はしばらく動かなかった。
しばらくして、腕が少しずつ緩む。恐る恐る上を見ると、すぅ、すぅ、と寝息を立てて、既に立ったまま眠っている。声をかけても反応が無い。キョーコはその大きな身体を何とかベッドに横たわらせて、蓮に上掛けをかけた。



食べて貰えなかった食事を、冷蔵庫に入れた。



明日の蓮の予定は変わらずホテルと社に聞いてはいたから、仕方なく、「久遠レン」の担当に電話を入れる。



「あの、久遠先生の次の原稿の取りに行く日程はいつですか?」
「あぁ、ゴメン、連絡入れて無かったね。明日の夜なんだけど。行ける?」
「あ、ハイ。オフなので大丈夫ですけど」

先程、もう、殆ど終わったと言った。
なるほど、だから今日は、蓮はもう眠ってしまっていいのだ。
誰かの顔を見て、蓮はもう気が緩んだだろう。
あっという間に眠る用意ができてしまったのだ


「分かりました。先生に連絡を取ってみます」
「悪いねぇ、君の回収率があんまりにいいんで、次は、工藤先生にもついてもらうかも。工藤先生も最近忙しいんでね」
「ハァ・・・」


久遠レンの回収率がいいのは多分特別だ。彼の仕事が完璧なだけだ。自分の力では無い。
電話を切った後、ぐっすりと眠っている蓮の寝顔を見ながら、また終電が無い事に気付いて、仕方なく、ソファに横になった。


女将が、「やっぱり、彼のところに行ったのよ」と、目を輝かせながら大将に言っているだろう事を思った。



窓辺に、大きく真っ赤なバラが一輪、飾ってあった。



きっと、明日の朝、「君に」と言いながら、蓮が渡してくれるのだろう。そう思いながら、こんな時まで忘れずに用意してある事に驚きを覚えた。







2009.3.28