バラの融点20



「なるほどねえ」


工藤仁は手元の茶を口にした。


その日の夜も、キョーコは工藤仁の部屋に寄っていた。
少し目を腫らして来たキョーコに驚いて、そして、撮影で泣く演技で、泣きすぎてしまって、と、キョーコは笑った。


工藤仁との時間は多く続いていた。仕事で、とはいえ、全く今の仕事とは関係ない時間だったから、ただ話をしに茶を飲みに行くだけ。

蓮が心配をしている事など、キョーコには少しも伝わってはいなかった。今日も工藤先生のところだったの?と問う蓮に、ええ、と答える。そう、と言う蓮の心の中に、引き止めたい嫉妬心がある事など、微塵も気付いていなかった。

蓮の部屋に近いから、時間があれば顔を見に寄った。茶をいれるのはもっぱら工藤仁で、その紅茶の味だけはまるで店で飲むかのように美味しかった。

今はなぜラブミー部に入る事になったのかを話し終えたところで、恋に恋した自分もさらけ出した所だった。誰に恋をしていたかまでは伝えなかったが、まさかそんな他人にも自分の話をできるようになるまでに至るとは思わなかった。


「もう、ラブミー部、出たいの?」
「出たい、と、思って出られるのかはよく分からないんです。社長の意向しだいで」
「今、恋は?・・・・当然してない?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・わかりません」
「わからない?」
「・・・・・本当に、わからないんです・・・・・・」
「・・・・・。・・・ちょっと待ってて」


工藤仁は部屋を出て行き、数分ほど部屋を空けた。
暇になったキョーコは手元の茶を飲む。


する事が無いと、つい部屋を見渡してしまう。


工藤仁の部屋の中を全て見たわけではない。通ったのは玄関と通してもらっているリビングだけ。リビングはキッチンと対面になっている。キッチンはすっきりとしまわれて何も置いていない。部屋も随分とすっきり、いや、すっきりしすぎるぐらい物が何も無くて、リビングにはただソファとテーブル。およそ来客用にしか使っていないのだろう。まるでモデルルームのように整っている。誰かに差し入れられただろう観葉植物が、リボンつきのまま窓際で大きく育っていた。

部屋の奥がきっと彼の活動拠点で、あまりこの場には入らないのかもしれない。
そんな事を思いながら、リビングの外の風景を眺める。
蓮の部屋と同じような夜景が見えた。


「おまたせ。これ」

工藤仁が何冊かの本をテーブルの上に積んで置いた。「あまりいい方法ではないけど」と前置きをして、「たまには下を見るのも、いい方法だよ」、と言った。


「どういう、意味でしょうか」
「自分が不幸だと思ったとき、もっと不幸な人の話を目にして、自分は不幸じゃない、まだまだ幸せだと思う、ちょっと後ろ向きな方法。下は見るなと人は言うけど、上しか見られないのも、それはそれで不幸な事だとオレは思うんだよね」

工藤は笑いながら説明し、本を裏返した。
説明文をひとさし指でたどる。
可愛らしいハートマークが描かれたパステルカラーの表紙にはおよそそぐわない文字が並んで目に飛び込む。

「女の子たちが書く不幸話は不思議だね。どれも、中々に不幸の連続。女の子にとって最も不幸と考えられる、という意味だけど。本当にこんな事が頻繁にあるのだとしたら、それはそれで困ってしまうような。まるで女の子が使い捨てカイロのような話ばかりだ。それでも需要があるからこうして何冊も置かれるのだと思うけど・・・・。という訳で、これらは女の子用、不幸な話全集。男にとって最も不幸な話って、人の生死に関わる事を除けば、自分の存在を認められない話だとかだから、そんな話を読むと、居場所がある自分はまだ幸せだな、と思ったりするんだけど」

キョーコは工藤仁を見つめながら、はい、と言った。

「本当はね、ラブミー部という名の、愛の欠落者たちの烙印を押された世界を少し覗いてみたかったんだ。そこへ至る過程は実は誰しも陥る可能性があるんじゃないかって。でも今は話にするかは別。将来話が役に立つ作品ができるかもしれないけど、久遠先生がもう先に題材にして、執筆が進んでいるかもしれないしね?」

工藤仁は探るように冗談めかしてキョーコに問いかけ、キョーコは、わかりません、と言い、本当に知らないから、素直に笑った。


「お借りして、いいですか?」
「もちろん。でも、気分が悪くなったり、男を不信に思う気持ちが強くなるようなら、途中で読むのをやめてね。逆効果だから。オレは君をラブミー部に留めておきたいと思っている訳ではないから・・・」
「はい、わかりました」


キョーコはそれらをかばんにしまうと、工藤仁の文庫本blueも目に留まり、それを取り出した。

「先生、blueも拝見しました。優しい話でした。女の子は大事にされてたのに、最後は残念でしたけど」
「お、読んでくれたんだ。ありがとう」
「これも誰か、イメージされる方がいらしたんですか?」
「いたといえばいた、かな・・・」

工藤仁は珍しく言葉を濁したから、その続きは聞くのを控えた。
が、彼はそれを自ら続けた。

「オレの実話。君の話ばかりを聞いておいて何だから、特別に教えてあげよう。内緒だよ」
「わかりました、お話ししにくい事を伺ってしまってすみません・・・」
「いや、もう、終わったことだから。しかもそれでオレは生かせてもらえるだけの糧も得させてもらったし・・・彼女のおかげで得をしたと思っておくことにするよ」


工藤仁は立ち上がり、少々遅くなってしまった事を詫びた。
キョーコも立ち上がり、部屋を後にする。

「京子さん」、と畏まった工藤仁の声がして、キョーコが「はい」と呼びかけに答えると、


「いつかでいい。できれば今のあなたの本当の気持ちを聞きたい。まだ、隠している気がするから」
「・・・・・・・・すみません・・・・・・・」
「オレが誰かに他言する事は絶対にないし、君の本当をさらす事も無い。信じて欲しいと口で言っても難しいと思うけど・・・・・」
「わかりました、また、次回に・・・・」
「待ってる」


工藤仁の部屋をあとにして、時間を確認する為携帯を開けると、夜の八時を回っていた。


社に連絡を取ると、蓮はもう自宅に帰ったと言った。
蓮に連絡を入れると、迎えにいく、と言った。


「今日は、どこかで食事でもしよう。もう、オレのために今日は作らなくていいから」
「すみません、では、お言葉に甘えて・・・・」



迎えに来た蓮にキョーコは、一緒に食事をしている所でもキャッチされたら、と心配をしたけれども、ちょうど映画撮影中、問題ないよ、と笑った。



これからの撮影は、しばらく蓮と離れて、一人の場面が続く。
だから、しばらく、蓮の部屋に行くのもやめて、一人でいようと思っていた。
カエデの心境に近い状況にいるほうが、いいと思っていた。


だから、「今日は、部屋に行くのをやめて家に帰ろうと思うんです」と、言うはずだったのに、それを言う事ができなかった。


そのまま二人で部屋に帰った。


蓮が先にシャワーを浴びに行き、キョーコは台本と、工藤仁から借りてきた本と、工藤仁のblueをテーブルに出して置いた。


「唯」、と書かれた淡いピンクの可愛らしい本は、随分と優しい表現で、最も不幸な話の連続を書き綴ってあった。


蓮がシャワーを浴び、「おまたせ」と言って戻ってくるまでには、およそ半分以上は目を通すことができていた。



「どうしたの、その本・・・・あ、工藤先生?」
「ええ。最近の、流行の本だそうです」
「blueも、いい話だったね。彼は、オレとは違って本当に本物の作家だから、実はちょっと行って欲しくない。実力を君に比べられたら、一目瞭然だから」
「そんな。久遠先生と工藤先生は、書かれる話のタイプが違いますから」


にこり、と笑い、キョーコもシャワーを浴びるべく立ち上がる。
まだ少しだけはれぼったい目をするキョーコに蓮は、優しく笑った。


「まだ、目が腫れてるね」
「もー、セージのばか!っていっぱい思ってました」



蓮は笑いながらキョーコの髪を混ぜた。
まるでセージがカエデにするかのようだった。



カエデのように、いつかはお別れを決意しなければならない、と思うと、その手も今の時間もとても大事に思えて、なぜかあっという間にキョーコは涙を浮かべた。
「えっ・・・・」と言って蓮は取り乱した。


「そうされると、カエデちゃんの気持ちに戻ってしまってダメみたいです・・・・」


ぐすり、と、鼻をすすったキョーコを、蓮は、今度は、現場で願ったように、腕に抱きしめる事ができた。現場で泣いたキョーコを見ながら、どんなに抱きしめたかったことか。


「この話、オレが主演の予定ではなかったんだ」
「え・・・?」
「監督が、どうせならオレがやればって言ったから、そうなった。おかげで少し、役得かも」


ぐずり続ける腕の中のキョーコをとても愛しく思いながら、蓮はキョーコの背中を撫でて、言った。


「それは、わたし、です。こんなに抱きしめてもらって・・・恋人役まで練習させてもらって・・・・」


そう言ったキョーコに、蓮はごく自然に唇に口付けていた。
どうやって理性を働かせても、キョーコが、可愛く思えて仕方なかった。

「ふっ・・・」と、息を漏らし、キョーコは蓮を優しく受け入れて、その舌先を絡ませる。
昼間の気持ちがあるせいなのか、蓮を愛しく思う気持ちは、数段増しているような気がした。そして、その気持ちの中する口づけは、とても優しく甘い感覚がした。


その表情を見ていた蓮は、「あぁ、ヤバイ・・・可愛い」、そう言って、キョーコを離した。


「オレはセージと違って理性が働かないから、これ以上抱きしめるのは・・・」


甘えた表情をしたキョーコに、蓮は言った。
はっとして、すっと表情を変えたキョーコは、「すみません、甘えてしまって」、と、すまなそうに言った。赤くなって照れなかった表情を見て、蓮は少し不思議な気持ちがした。


「今はまだ、敦賀さんを見ると、カエデちゃんの気持ちのほうが強いみたいで、つい」


キョーコは、まるでカエデがする表情のように寂しそうに言った。
蓮は言葉が詰まって、珍しく、何もうまく出てこなかった。


「あ、シャワー、浴びてきますね」


キョーコはにこり、と笑って、部屋を後にした。




――そばにいるのに、何か寂しい



かつて蓮が女性によく言われた言葉。


「唯」と書かれた淡いピンク色の表紙をした本を指でたどりながら、そんな言葉を、蓮は思い出していた。












2010.02.27