バラの融点 16




その日の晩、キョーコは非常におとなしく蓮の横に座っていた。
そのおとなしい理由を、蓮は、キョーコに仕事で、触れるだけとはいえ何度もキスをしたからだと思っていた。
うつむくキョーコの顔を、蓮が身体をひねり覗き込むと、キョーコはさらにうつむいた。


「どうした?体調、悪い?」
「いいえ」
「君に、仕事とはいえ、何度もキスをしてしまったから、そばにいるのさえ嫌で気分が悪いのに、気をつかってそばにいてくれているのかと思って・・・」
「ち、ちがいますっ・・・そうじゃない、そうじゃないんですけど・・・」


そう問われてそういえば蓮と何度もした、という事実が身体の中に沸きあがり、キョーコは頬を染めた。
蓮は間近で、心から心配そうにキョーコの表情を伺っていて、その近さにキョーコはめまいを覚えて、つい、蓮の胸を両腕で押してしまった。

距離をとられ、離された蓮は、

「ごめん・・・」


と言って、視線をそらし、首を振った。


「あの、ですから、違うんです、ごめんなさい・・・・・」


キョーコは身体の中から沸き起こってくる自分の感情を受け入れられずに戸惑っている。
心から心配をしてくれているのに、拒否をしてしまい、少し傷ついただろう蓮の事を思って、キョーコは蓮のシャツの裾をぎゅ、と強く握った。その場を離れようとした蓮を引き止めるのが精一杯だった。

拒否をしたのは、蓮ではなく、自分の心の中だったのに、その向き合いたくない感情の出所はやはり蓮だから、そばにいると自制心や理性や自分の約束事といった縛りの中では、既に跳ね返す事ができない程、内側を、じわじわ、じわじわ、と、侵食してくる。


その侵食を受け入れなさい、と言ったのは監督だ。今、受け入れてしまえば、きっと、自制している分、それは甘く心を占めるに違いない。しかも蓮も期間限定の恋人である事に協力してくれている。甘えれば甘えさせてくれるのだろうし、頼めば抱きしめてくれさえもするだろう。前にも、キスしたくなったらどうぞ、とまで言っていた。嫌ならそばにいない、と。

キョーコ自身を蓮はもう受け入れているのだとすれば、その甘い罠に引っかかるフリをしたとしても、それは深く愛してくれるのだろう。キョーコ次第だよ、と、蓮は言ってくれているような気がして、もし、その甘い罠に一度踏み入れたなら、と、ようやく今蓮がそばにいてくれる本当の理由に、目を向けたところだ。


自身の作品を良くしたいからなのか、仕事だからなのか、本当にキョーコをそばに置きたいと思っているのかは分からないけれど、蓮は、もう、キョーコを受け入れている。その事実は、深くキョーコの心を蓮に引き寄せていた。


そして、その甘い罠を受け入れる最大の条件は、期間限定後、忘れなければならない、という覚悟が必要という事。


蓮を好きにならない初めての女優になると決心して、その決心のせいで、画面が良くならない。それは理解していた。その硬い心が、画面を醜くしているのは、監督に言われなくても見ていて分かる。



どうしたらいいのか分からずに、これは仕事なのだと思ってしまえば、蓮を愛そうとすることさえ、金銭的な対価を得る代償かもしれないわね、と、キョーコは奏江にもらした。


そして、蓮を愛さないと頑なになって画面が悪くなり二流評価を得ることと、本気で愛して画面を良くして忘れること、どちらが自分にとっての幸いなのかしら、と、キョーコがつい奏江にもらすと、奏江は、「ハァ?もちろん仕事優先でしょ。アンタが一生掛かっても払えない金額がアンタのために動いてるのよ。人の一人ぐらい、顔に万札でも思い浮かべて愛してみたら」と、言った。そこまで覚悟できる奏江を女優の鏡だと思いながら聞いていた。


「それって終わった後、どうやって忘れればいいの?」と奏江に問うと、心の底から面倒そうに「仕事なんだから、相手だって、傍にいたりキスをするのを気持ち悪く思っていたんだと思えば、すぐに気持ちなんてなえるわよ」と・・・。





「敦賀さん・・・・」


愛そうと、受け入れようと覚悟をして、そして、忘れなければならない時のきっと悲しくなるだろう気持ちも同時に沸き起こり、キョーコはついに思考はパンクして、涙が浮かんでしまった。



「ど、どうしたの・・・?」
「・・・・っ・・・・」


引き止めて、黙ってキョーコの横に座っていた蓮は、急に肩を震わせたキョーコに驚いて再びキョーコの顔を覗き込み、心配そうに頬にその手をあてがった。


ぱたり、と、一粒、キョーコの涙が蓮の手の甲を伝って落ちた。


その瞬間に、蓮はもう、キョーコの身体を引き寄せて、腕の中に入れていた。
それは、蓮にとってもキョーコにとっても、頭で考えて行動したことではない事は、肌で感じ取っていた。



「監督に、何か、きつい事を言われた?」


キョーコは弱く首を振る。


「誰かに、意地悪なことを言われた?」


再び首を振る。



「オレと一緒にいるの、もう、辛い?」



キョーコは首を振らなかった。
しかし、抱きしめてくれている蓮の腰に腕を回して、蓮を抱きしめた。



「オレはいつも、女の子一人すら幸せにしてあげられないみたいで・・・こうして演技ですら、辛い思いをさせているみたいだね・・・」


キョーコは強く首を振り、蓮をさらに抱きしめて、言った。


「私の、イヤリング・・・敦賀さんが選んでくださったの・・・」
「え・・・?」
「無くなってしまったから、また、選んでください・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」


蓮はキョーコの耳に指で触れた。
耳たぶを指で挟むと、抱きしめているキョーコの身体は少し衝動で震えた。
身体をひねり、耳たぶを唇で挟む。
大きく、身体が震えた。


「愛してるよ、キョーコ・・・」


少し湿った声がキョーコの耳に直接届いた。
その優しく甘い声がどんなに嬉しいものだったのか、その感覚を受け入れると同時に、忘れなければならない時の事を思って、再びキョーコは、うぅ・・・と肩を震わせた。


蓮の言葉やしぐさは、どこまでが本物で、どこまでが演技なのか、もう、区別がつかなくなっていた。


「敦賀さん・・・」



キョーコがようやく少し顔を上げると、蓮は、


「触れたいんだけど、キスして、いい?」


と言い、キョーコは、一つ、うなずいた。

顔を寄せると、キョーコが我慢しきれずに思わず緩やかな息を吐き出した。
蓮はキョーコの頬を両手で包み、鼻を何度かキョーコの鼻先に摺り寄せた。
唇に触れるだけの口付けに、二人共に信じられないほど緊張をしていた。



「私、初めてで・・・」
「うん?」
「・・・私の、今までの恋愛の話、聞いてくれますか?」
「もちろん」


キョーコは頬に少しだけ残った涙のあとを手で拭い、少しはにかんで言った。
蓮はキョーコの背中を何度か撫でて離した。



小一時間ほど話を続ける間、蓮は黙ってそれを聞いていた。

「だから、あまり、こうして誰かの為にとか、恋愛などは、したくないと・・・」

と言ってキョーコは締めた。
話し終わった後しばらく、蓮は何も言わなかった。
ただ、キョーコの背中を何度か撫でた。




「その事実を、受け入れられた?」と一言たずねて、キョーコが「受け入れる?」とたずね返したから、「いつか、受け入れられたらいいね」とだけ、言った。

















2010.02.11