バラの融点





朝早くに突如事務所に来て欲しいと呼び出されたキョーコは、朝8時半にはLMEのタレント部主任である椹のデスクの前に立っていた。

「最上さん、悪いんだけどさ、ちょっと久遠先生の所に原稿取りに行って来てよって・・・出版部の主任からの伝言ね」
「え・・・でもまだあそこに貼ってある進行表によると・・・締め切り一週間前ですよね?」
「先生が締め切り一週間前に原稿を届けなかった時が無いんだってさ。締め切り厳守で有名らしい。今日がその日なんだけど、昨日は携帯もファックスも家の電話も全く音沙汰なし。連絡にマメな先生が今までそんな事無かったからもしかして倒れているんじゃないか心配なんだってさ。出版部の皆は他の先生の張り付きと締め切りで出られないから、ちょっと顔見に行って来てって。・・・といっても、オレももちろん会ったことがないんだけどさ。なぜか社長自ら君を指名したらしいから、面倒だとは思うけど、頼まれてくれないかなあ・・・」
「ハァ・・・」

キョーコは明らかに不満そうに椹に生返事をした。しかし社長の名前を出されてしまっては断る訳にも行かなかった。

「渡された色んな地図入れておいたからさ。捕まらなかったらちょっと探ってみて。そんなに広い半径の行動をする先生じゃないらしい。先生の自宅の地図はコレ、携帯の電話番号はコレだから。先生のカンヅメ先はコレで、よく利用するホテルはコレ。夜はこのバーにいることが多いのと、食べ物はコンビニ食ばっかりらしいから、ここのコンビニ食が常食だって本人が言っていたらしい。でもさ、」

そこまで言った後、椹は声のトーンを落し、噂話声を出した。

「顔だけは誰も、出版部の人間ですら分からないんだよ・・・だから、こうした行動範囲が分かったとしても、もしかしたら捕まらないかもしれないんだけどさ・・・一応、ね?自宅にいるかもしれないし」
「・・・・分かりました」


もう口を挟む隙さえも無く、久遠氏の行動パターンを叩き込まれながら、キョーコのテンションは物凄い勢いで下がっていった。


*****

「モー子さん、ゴメンっ!そんな訳で、今日のデートは無理になっちゃった・・・」
「あ、そう」


LME正面玄関前。待ち合わせ時間に五分ほど遅れてきたキョーコを見ながら怒るでもなく珍しそうにしていた琴南奏江は、キョーコが遅れてきた理由と共に、今日の予定をドタキャンする理由をそれは事細かに説明された。


奏江はあっさりとその事実を受け入れ、「じゃ、また今度」、と、あっけなくその場から去ろうとしている。親友としてもう少し残念がって欲しかったことと、もう少し一緒にいたかったキョーコは引き止めるようにして、「え、それだけ?」と、ドタキャンされた事にあっさり引き下がった奏江を見つめた。


「だって仕事でしょ?買い物なんてまた今度行けばいいわよ。じゃ、頑張ってね」


その今度が一体何ヶ月先になるか分からないからキョーコはとても残念に思っているのに、奏江はそんなに気にしていない様子で、綺麗にのびた髪をさらりと翻して、去っていった。もし奏江からせめて「楽しみにしていたのに残念ね」なんて一言があったなら、キョーコは一日ご機嫌に仕事をしただろう。今日奏江とデートする約束だって何ヶ月も前から予約を入れ、デートしようねと約束してきたのに。


「・・・・何でそんな事で呼び出されるのよ・・・・。・・・・・・・久遠先生のばかぁぁぁぁ〜〜〜〜!!!連絡ぐらいしっかりしなさいよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」


と、無意味な八つ当たりの声が正面玄関前で響いた。



******



仕事に向かう前に、一度キョーコは一度LME社屋内に戻った。夜は養成所で練習があった。その時に持って行かねばならない書類をラブミー部の部室のロッカー内に忘れていた。


「やっ、最上さん、相変わらず声だけは大きいのね」

不意にキョーコの肩を叩いたのは、タレントの美玲だった。

「あ、美玲さん、こんにちはっ・・・」

深々と頭を下げる。美玲はキョーコが入ろうとしていたラブミー部の部室に一緒に入ってきて、扉を自ら閉めた。

「お時間大丈夫なんですか?」


キョーコは率直な疑問を向けた。三つ程歳が上の売れっ子タレントの美玲は何故かキョーコを気に入っていて、その時々言いたい事を言いたいように言って去っていく。先輩で立場が違うから、もちろんキョーコは美玲を友達などとは思っていなかったが、後輩の自分にも偉そうな態度一つとらずに声をかけてくれる美玲には好印象を持っていた。


「だってこのあと久遠先生のトコ行くんでしょ?」
「あ、そうです。お詳しいですね」
「さっき椹さんに呼び出されていた時、私同じ部屋にいたのよ。私のプライベート本今度出してもらうの。その原稿持って来ていたから。私、キョーコちゃんに手を振ったのに全然私の事気付かないでそのまま暗い顔で出て行ってしまうんだもの」
「わぁ、そうなんですか、気付かずにすみませんでした・・・」


キョーコは申し訳無さそうに返事をした。
その時は奏江との約束を断らねばならない事で頭がいっぱいだった。


「いいの、呼び止めた理由はそうじゃなくて。だから、久遠先生の所に行くんでしょう?私、彼のすっごいファンなの。会ったらこの本にサイン、貰ってきてくれない?」
「え・・・?」


キョーコは、薔薇の花の写真がプリントされたハードカバーの本を渡された。キョーコは美玲の瞳が急に熱くなった理由を理解できなかった。自分は久遠という人物を知らなかった。


「え、知らないの?久遠レン」
「知りません」
「もうっ・・・タレントの卵としてどうかと思うわ。超売れっ子脚本家でしょう?それに先日初めて出したこの本、この間の芥川賞にノミネートされたのに即蹴ったって超有名になったじゃない。私もディレクターさんたちに先生の事聞いてみたりするんだけど、監督以外先生のこと知らないって、中々情報手に入らないのよ・・・。社長と仲がいいっていうのは聞いたわ。社長と同じぐらいの年齢で、子供は大学生なんだって。一体どんな顔をしていて、どんな姿で、どんな方なのかはわからないけど。社長と仲が良くて・・・あんなに素敵な本を書かれる方なんだもの・・・きっと素敵な方に違いないんだわ・・・。変われるものなら私があなたの仕事と変わりたいぐらい!!ね、この本移動の間に読んでいいから。お願いっ!!」


美玲はキョーコが知りたいとも思っていない久遠レンについて一気にまくし立てた。


美玲という人物は普段クールなキャラクターで通っている。だから、実はこんなに熱い人だったんだ、と、久遠レンの事などよりも、美玲のキラキラとして子供のように輝く熱い瞳の方がよほど可愛いし興味がある、と、思った。


「貰えたら、貰ってみます」


キョーコはそう言うしかなかった。美玲は写メもできたらぜひ、と言ったが、自分の性格上初対面でそこまでできるとは到底思えなかった。


そうして、確かに、美玲がラブミー部の部屋に入った理由は理解できた。普段クールなキャラクターで通っている彼女が、熱くゴリ押しをする姿など、外では見せられなかったのだろう。キョーコが本をバッグにしまい、当初の目的であった書類をバッグにしまうと、二人で部屋を出た。廊下を歩くと、少し離れた社長室の前に黒く大きな人物がいる気がした。


「あ、カタマリだ」


美玲は一言ボソッとそういった。


「?」
「たまにいるのよ、あの人」
「・・・・」
「大きくて、ゆらゆらのそのそ動く人なのよ・・・。そしていつも真っ黒な格好をしてるの。不思議なデザインのパーカーとか・・・。そんなののフードをすっぽり被っているか、若しくは冬はいつも真っ黒なロングコートを着ていて、真っ黒いニット帽に濃い黒のサングラス。今時芸能人だってあんな格好しないわ。・・・ていうか・・・目を合わせたら声掛けられて襲われそうで怖いから、誰も声もかけないし、声を聞いた事もないし、ムシ。みんなに黒いカタマリって呼ばれてるのよ。たまにあぁして社長室前の椅子に座って、こちらの様子を伺ってる。一体何の用事なのかしら・・・。まるでこちらがこの世であの場から向こうが別の世界みたい。普段私たちなんて社長室行かないからいいけど・・・。あぁ、気持ち悪っ・・・・」


美玲は心底嫌そうにささやく。自分もこの廊下はよく歩くが、気にした事が無かったから、キョーコはその人物に今まで一切気付いていなかった。


「サングラスだから、シャイとか、実はすごい大物とか、あの場に堂々と座っていられるのだから、社長さんの息子さんとか・・・誰も話した事が無いんですよね?もしかしたら嫌な人では無いかもしれないですし・・・」
「キョーコちゃんて人を見る目が無いの?あのカタマリをそんな風に形容するなんて。持っている雰囲気だけで十分ヤバイでしょ」


美玲はキョーコの耳にささやき続けた。少しだけ様子を伺ったキョーコは、一瞬そのカタマリと目が合った気がした。思わず頭を下げた。相手も、ゆっくりと、のそりとした動作で頭を下げた。口元だけが、微かに、笑った。


「・・・ぃ・・・っ・・・・・」


美玲が声にならない声をあげて、キョーコの腕を引く。
足早に廊下の角を曲がり、カタマリが見えない場所まで来ると、

「何やってるのよ!今度声掛けられたりしても知らないから!!」

と、本気で怒ったような声を出した。キョーコは、すみませんつい、と言ったが、廊下は繋がっているのだから、その声例のカタマリさんに聞こえているんじゃないでしょうか、と思った。


ブツブツ何事か呟きながら、恐怖を感じた自分を収めるように、美玲は鳥肌が立った両腕を両手で何度も擦った。そして正面玄関近くまで来て、一度ハァ、と息を吐き出した後、歩みを止め、


「やっぱり敦賀蓮はカッコいいわよね・・・・」


と、貼ってあるポスターを見てしみじみそう言った。まるでカタマリの事をすぐにでも忘れたいかのようだ。キョーコは美玲の視線の先にある大きなポスターを見上げた。


「そうでしょうか・・・?」
「キョーコちゃん・・・あのね・・・・久遠レンを知らないわ、カタマリの肩は持つは・・・敦賀蓮を見て何も感じないわ・・・・感覚どこかずれているんじゃない?」
「ハァ・・・そうかもしれませんね」


キョーコは自分の感覚を素直に伝えているだけなのだが、どうやら普通では無いらしい。別に普通というのがどんなものなのかも分からないし、誰もが自分は普通、という感覚を持っているのだから、別に他人にとって自分が普通でも普通でなくてもどうでもよかった。


しかし自分から見て美玲はタレントとしての強い個性の持ち主というか、普通じゃないというか。偏見や憧れや、一方的な何かの感情を抱きやすい人ではあるけれども、それを差し引いても他人にそういった『普通は』言いにくい本音を悪びれも無くハッキリ言える美玲は、やはり嫌いではなかった。

「久遠レンも敦賀蓮も超好み!レンて名前、きっと素敵な男にしか使えない名前なのよ」


美玲はうっとりとした表情でそう言った。




2008.10.11